2011年11月17日 02:33
■倍音の月2日(G11/16)KIN67 青い月の手(byD)
KIN52(11/1)は、「金剛界マンダラ灌頂 序会」ということで、ダライ・ラマ法王も灌頂を受ける前段階の基本的な教えについて解説して下さる時間を長く取られていたように思う。これはカーラ・チャクラの時も同じで、儀式そのものより、教えの本質や灌頂を受ける意味についての理解こそが重要だとする法王の姿勢が、そのまま表現されていると言えよう。
翌、KIN53(11/2)は、『13の月の暦』(ドリームスペル)ではちょうど「交差の北の白い城(52日間)」、そして「空間の力」が働く「赤い空歩く者」のウェイブスペル(13日間)に入るタイミングで、まさに「金剛界」という空間に参入するのにふさわしい流れだ。法王のスケジュールは、何故かいつもこの暦にシンクロしていて驚かされる。
早朝、大伽藍の三鈷の松(空海が唐の海岸から投げた三鈷がひっかかっていたという高野山開山にまつわる伝説の松)の前で軽く身体を動かし、「天真五相」を行う。新体道の大基本で、同時に極意でもあるこの型について、創始者の青木先生は『新体道ー智慧をひらく身体技法』の中で、以下のような解説をされている。
【宇宙の中心、本質そのものである御本尊(詳しくは金剛界大日如来)の五つの見方(現れ方)を「五相」といいます。】
つまり、灌頂に登場する、阿閦、宝生、阿弥陀、不空成就、そして大日の各如来を、連続する身体の動きとして表現するのが「天真五相」という型だとも言えるのだ。この構造は同時に、「ドリームスペル」のジャーニーボードに登場する5つの城(注:マヤ暦には存在しない)にも見出すことが出来る。
その後、奥の院へと向かうと、前日、大師堂や梵恩舎でたまたま居合わせた人や、顔見知りの人にやたらと出会う。ちょうど森の中に朝陽が差し込んで来る時間帯だったが、奥の院のエリアはまだヒンヤリしていて結構からだが冷えてしまったので、「みろく石」でくるみ餅とお茶を頂いてから会場(講堂)に向かった。
マンダラについての解説を聴きに体育館に行っている方が多いのか、法王を中心に儀式が行われている講堂は割と席が空いていて、チャド・リンポチェの手の動きがよく見える席に座る事が出来た(午前は自由席)。グラーツでのカーラ・チャクラでもそうだったが、実はこの午前の儀式には見所が沢山あり、瞑想するのにも最高の時間なのだ。
「この儀式(特に数々の印)に関して一番詳しい」と法王も認めるチャド・リンポチェが、全体をリードするような感じで僅かに早く動いている。きっと空海の印のスケッチは、こういう動きの瞬間を切り取ったものだったのだろうと思わせる流麗さ。せっかくの記念行事なら、砂マンダラを固めて残すなんて格好悪いことをするより、文字や写真では残らない「動き」を様々な角度から撮影して記録する方が、密教を教える大学として遥かに意味があると思うのだが(高野山に伝わっているものと比較する上でも)、どうもそういうことをやっている気配は見受けられない。
この何とも言えない形式主義的な雰囲気は、イベント全体を通じて感じられたもので、このような機会を設けて下さった主催者には申し訳ないが、もう少し過去のカーラチャクラの様子でも研究して準備を進めて頂きたかった、というのが正直な感想だ。壇上ではどんどん儀式が進められているのに、会場では2段階位ズレて色々なものが配られている印象だった。配布ボランティアの席の位置を考慮するだけでも大分違ったと思うのだが…。受け身で融通の利かない参加者が多かったことも含め、今の日本の縮図を見る思いがした。
灌頂終了後、「砂マンダラ」拝観のために列に並ぶ。儀式を執り行っていたナムギャルの僧侶達は、さすがに手際良く、もう片付けを始めていたが、ちょっとした間を突いてチャド・リンポチェとの記念撮影をお願いしてみたら、快く受けて下さった。後日談によると、暖かいものを欲していたリンポチェは、中華料理店でラーメンを食べていたらしいし、その後、東京では焼き肉も食べられた模様。
チベットの風土や文化を知らない人や、仏教徒は肉を食べないと思い込んでいる人(特にベジタリアンの方が魂が進化しているなんて信じているスピ系の人)は驚くだろうが、肉を食べるチベット人の僧侶は法王も含め結構多い。もちろん、「最初から食肉用に飼育されている動物についてどう思っているのだろうか」という疑問も湧かないではないが、彼らの解釈では、死んでしまっている動物の肉を食べるのは別に問題は無いらしい。
それに、やけに豪華な精進料理を食べたり、形式的なことばかりにこだわっているだけで中身が無いよりは、肉食していても、仏陀の教えを思い起こさせる智慧や、必要に応じてサッと動ける行動力が伴っている方が、ずっと説得力があるし世の中の役にも立つと思う。思えば、灌頂(序会、本会)の二日間は見事に空が晴れ渡っていたが、きっと空海(法王は法身として今も高野山におられるということは十分ありうるという見解を述べられていた)も、生きた教えの息吹が再び高野山にもたらされたことを、喜ばれていたのではないだろうか。
翌、KIN54(11/3)は、朝に宿坊(西禅院)をチェックアウト。その時はじめて、この宿が親鸞や松下幸之助と縁ある寺であることを知った。小雨の中、ちょうど見頃に色付いた紅葉を味わいながら高野山の名所を巡ったが、特に西南院前の真っ赤なもみじは見事だった。大伽藍に戻ってくると、何か儀式的な意味があるのか、境内の道がコウヤマキで縁取りされていて、甘酒も振る舞われていた。
この日、コウヤマキをお印にされている悠仁親王が、「着袴の儀」と「深曽木の儀」という儀式を東京で行っていたそうなので(後で知ったのだが)、もしかしたらそのことと関係があったのかもしれない。何しろコウヤマキは高野山に多く生えていることにその名の由来がある植物である。法王が高野山に滞在されているタイミングで、このような儀式が行われていたのは興味深い。
また、私にとっては、コウヤマキがお印に決まった2006年9月12日(KIN257)が、2010年12月21日(KIN257)の三輪山登山からちょうど6スピン前だったというシンクロも面白く感じられた。『マヤのリズム』にも書いた通り、369(これは天照大神の数霊でもあるらしい)は、その登山と密接に関係した数字だったし、3と9は他の流れからも頻繁に登場していたが、6だけは抜けていたからだ。
細かいことを書けば(夕に大阪の四天王寺でまた灌頂仲間とバッタリ再会したなど)まだまだ色々あるが、長くなってしまったので、今回のショートトリップについては、あとひとつだけメモを残して終わりにしたいと思う。帰路のフライトは14列目、羽田から二子玉川行きのバス乗り場も14番と、ダライ・ラマ法王14世(KIN14)にバッチリシンクロして完了。尚、高野山の美味しいものメモについては、そのうちLが書いてくれる・・・かもしれない。
KIN52(11/1)は、「金剛界マンダラ灌頂 序会」ということで、ダライ・ラマ法王も灌頂を受ける前段階の基本的な教えについて解説して下さる時間を長く取られていたように思う。これはカーラ・チャクラの時も同じで、儀式そのものより、教えの本質や灌頂を受ける意味についての理解こそが重要だとする法王の姿勢が、そのまま表現されていると言えよう。
翌、KIN53(11/2)は、『13の月の暦』(ドリームスペル)ではちょうど「交差の北の白い城(52日間)」、そして「空間の力」が働く「赤い空歩く者」のウェイブスペル(13日間)に入るタイミングで、まさに「金剛界」という空間に参入するのにふさわしい流れだ。法王のスケジュールは、何故かいつもこの暦にシンクロしていて驚かされる。
早朝、大伽藍の三鈷の松(空海が唐の海岸から投げた三鈷がひっかかっていたという高野山開山にまつわる伝説の松)の前で軽く身体を動かし、「天真五相」を行う。新体道の大基本で、同時に極意でもあるこの型について、創始者の青木先生は『新体道ー智慧をひらく身体技法』の中で、以下のような解説をされている。
【宇宙の中心、本質そのものである御本尊(詳しくは金剛界大日如来)の五つの見方(現れ方)を「五相」といいます。】
つまり、灌頂に登場する、阿閦、宝生、阿弥陀、不空成就、そして大日の各如来を、連続する身体の動きとして表現するのが「天真五相」という型だとも言えるのだ。この構造は同時に、「ドリームスペル」のジャーニーボードに登場する5つの城(注:マヤ暦には存在しない)にも見出すことが出来る。
その後、奥の院へと向かうと、前日、大師堂や梵恩舎でたまたま居合わせた人や、顔見知りの人にやたらと出会う。ちょうど森の中に朝陽が差し込んで来る時間帯だったが、奥の院のエリアはまだヒンヤリしていて結構からだが冷えてしまったので、「みろく石」でくるみ餅とお茶を頂いてから会場(講堂)に向かった。
マンダラについての解説を聴きに体育館に行っている方が多いのか、法王を中心に儀式が行われている講堂は割と席が空いていて、チャド・リンポチェの手の動きがよく見える席に座る事が出来た(午前は自由席)。グラーツでのカーラ・チャクラでもそうだったが、実はこの午前の儀式には見所が沢山あり、瞑想するのにも最高の時間なのだ。
「この儀式(特に数々の印)に関して一番詳しい」と法王も認めるチャド・リンポチェが、全体をリードするような感じで僅かに早く動いている。きっと空海の印のスケッチは、こういう動きの瞬間を切り取ったものだったのだろうと思わせる流麗さ。せっかくの記念行事なら、砂マンダラを固めて残すなんて格好悪いことをするより、文字や写真では残らない「動き」を様々な角度から撮影して記録する方が、密教を教える大学として遥かに意味があると思うのだが(高野山に伝わっているものと比較する上でも)、どうもそういうことをやっている気配は見受けられない。
この何とも言えない形式主義的な雰囲気は、イベント全体を通じて感じられたもので、このような機会を設けて下さった主催者には申し訳ないが、もう少し過去のカーラチャクラの様子でも研究して準備を進めて頂きたかった、というのが正直な感想だ。壇上ではどんどん儀式が進められているのに、会場では2段階位ズレて色々なものが配られている印象だった。配布ボランティアの席の位置を考慮するだけでも大分違ったと思うのだが…。受け身で融通の利かない参加者が多かったことも含め、今の日本の縮図を見る思いがした。
灌頂終了後、「砂マンダラ」拝観のために列に並ぶ。儀式を執り行っていたナムギャルの僧侶達は、さすがに手際良く、もう片付けを始めていたが、ちょっとした間を突いてチャド・リンポチェとの記念撮影をお願いしてみたら、快く受けて下さった。後日談によると、暖かいものを欲していたリンポチェは、中華料理店でラーメンを食べていたらしいし、その後、東京では焼き肉も食べられた模様。
チベットの風土や文化を知らない人や、仏教徒は肉を食べないと思い込んでいる人(特にベジタリアンの方が魂が進化しているなんて信じているスピ系の人)は驚くだろうが、肉を食べるチベット人の僧侶は法王も含め結構多い。もちろん、「最初から食肉用に飼育されている動物についてどう思っているのだろうか」という疑問も湧かないではないが、彼らの解釈では、死んでしまっている動物の肉を食べるのは別に問題は無いらしい。
それに、やけに豪華な精進料理を食べたり、形式的なことばかりにこだわっているだけで中身が無いよりは、肉食していても、仏陀の教えを思い起こさせる智慧や、必要に応じてサッと動ける行動力が伴っている方が、ずっと説得力があるし世の中の役にも立つと思う。思えば、灌頂(序会、本会)の二日間は見事に空が晴れ渡っていたが、きっと空海(法王は法身として今も高野山におられるということは十分ありうるという見解を述べられていた)も、生きた教えの息吹が再び高野山にもたらされたことを、喜ばれていたのではないだろうか。
翌、KIN54(11/3)は、朝に宿坊(西禅院)をチェックアウト。その時はじめて、この宿が親鸞や松下幸之助と縁ある寺であることを知った。小雨の中、ちょうど見頃に色付いた紅葉を味わいながら高野山の名所を巡ったが、特に西南院前の真っ赤なもみじは見事だった。大伽藍に戻ってくると、何か儀式的な意味があるのか、境内の道がコウヤマキで縁取りされていて、甘酒も振る舞われていた。
この日、コウヤマキをお印にされている悠仁親王が、「着袴の儀」と「深曽木の儀」という儀式を東京で行っていたそうなので(後で知ったのだが)、もしかしたらそのことと関係があったのかもしれない。何しろコウヤマキは高野山に多く生えていることにその名の由来がある植物である。法王が高野山に滞在されているタイミングで、このような儀式が行われていたのは興味深い。
また、私にとっては、コウヤマキがお印に決まった2006年9月12日(KIN257)が、2010年12月21日(KIN257)の三輪山登山からちょうど6スピン前だったというシンクロも面白く感じられた。『マヤのリズム』にも書いた通り、369(これは天照大神の数霊でもあるらしい)は、その登山と密接に関係した数字だったし、3と9は他の流れからも頻繁に登場していたが、6だけは抜けていたからだ。
細かいことを書けば(夕に大阪の四天王寺でまた灌頂仲間とバッタリ再会したなど)まだまだ色々あるが、長くなってしまったので、今回のショートトリップについては、あとひとつだけメモを残して終わりにしたいと思う。帰路のフライトは14列目、羽田から二子玉川行きのバス乗り場も14番と、ダライ・ラマ法王14世(KIN14)にバッチリシンクロして完了。尚、高野山の美味しいものメモについては、そのうちLが書いてくれる・・・かもしれない。
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