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レーリヒ「平和の旗」と「13の月の暦」

2017年12月13日 23:03

律動の月1日 (G12/13) KIN204 黄色い太陽の種 (by D)

『13の月の暦』では、今日から6番目の「律動の月」に入った。28日周期の暦で5ヶ月、20日周期の暦で7ヶ月、すなわち元旦から140日が経過したこのタイミングには、2つの暦の関係が、元旦と同じ「1日、黄色い種」という状態に戻る(*1)。

20日周期は古代マヤのハアブ(365日暦)に順じたもので、こよみ屋さんが出しているA3カレンダーの裏面にも掲載されているが、あくまで区切り方が同じというだけで、古代のものがそのまま継承されているのでは無い事に注意する必要がある(*2)。

今日から始まった8番目の「モル月」に添えられた「断片のすべてを統一し」という一文も、私の知る限り『テレクトノン』のマニュアルに掲載された情報が初出である。ちなみに、テレクトノンパレンケの「碑銘の神殿」と関係が深い銀河ツールだが、今日のサイ時間KIN69は「碑銘の神殿」の中央階段69段とシンクロしている。

さて、KIN204となった今朝、私が最初に思い浮かべたのは、ニコライ・レーリヒリョーリョフ)というロシアの人物だ。シャンバラを探し求めて中央アジアを旅した探検家にして画家で、その「文化による平和」の精神は、「平和の旗」と共にアグエイアス夫妻の「13の月の暦に替える平和の運動」にも引き継がれた。

事実、アグエイアス夫妻がこの暦の情報を携えて世界中を巡っていた時、会場には常に「レーリヒ平和の旗」が掲げられ、2001年にはその活動を讃えたアルタイ共和国が夫妻を招いている。思い出したが、それはまさに「黄色い太陽の種の年(KIN204)」の始まりで、出発前に日本に寄った夫妻に、何故かLが私の写真を渡した関係で、私は写真を通じて二人と共にアルタイを訪れている(笑)。

その後、アグエイアス夫妻が使っていた「平和の旗」が、高橋夫妻を経由して私たちの手元に届けられた事は、『シンクロニック・ジャーニー』に記した通りである。そんな事もあって、今日はレーリヒ誕生からどれくらい経過したのかを、計算してみたくなった。そして、その結果、今日そうしたくなった理由が分かった。

レーリヒの生没年は1874.10.9(KIN204)〜1947.12.13(KIN134)。つまり、ぴったり70年前の今日、この世を去っていたのだ!レーリヒが生まれた日(KIN)から201銀河スピン(201×260)というタイミングでもあった今日は、レーリヒの生と死の時間が重なる、極めて特別な日だったのである。この現象は52年に一度しか起きず、少なくとも「13の月の暦」が誕生してからは初めて生じた事である。

DSC01782.jpg ★レーリヒが最晩年を過ごした家で「平和の旗」と

しかも、70年前のその日に他界した場所は、ヒマヤラのクルー渓谷。『シンクロニック・ジャーニー』P137に私と写っている「平和の旗」は、13年前に訪れたレーリヒメモリアルトラストという場所で撮影したものだが、それはまさに、クルーにあったレーリヒの自宅跡をそのまま活用したミュージアムであった。

さらに、「201」という数にも私は驚きを隠せなかった。何故なら、3日前のKIN201に行われた「時のからだ塾」で、冒頭伝えたのは、『7:7::7:7』におけるKIN201は「時間をはずした月」(2012年冬至を含む「律動の月」=5年前の今日を含む28日間)という特別なひと月に対応する、という話だったからだ。

関連で、もう一つ書き添えておきたい事がある。今日、午前中の天真体道瞑想クラスでは、PANポーランドのYaro(KIN239)から預かった双剣水晶と共に瞑想したのだが、45日前にポーランドで出会った時、彼がクラクフ中央広場にプロジェクターで投影した数枚の映像の中にも「平和の旗」は含まれていた。

IMG_3080.jpg IMG_3085.jpg ★世界遺産の古都クラクフ中央広場にて

「平和の旗」にある3つの円は、科学、芸術、宗教を表しているという(*3)。昨年、渋谷で開催した《時の魔法・ドリームスペル展》で展示した「平和の旗」は、もちろんアグエイアス夫妻から継承されたものだが、然るべき機会があれば、できるだけ公開して、より多くの方に「平和の運動」としての「13の月の暦」の使用を喚起したいと思っている。

平和の旗 ★昨年の《時の魔法・ドリームスペル展》より

この根本の精神さえ押さえていれば、細かい使い方など後からどうにでもなる、というのが長年この暦について伝えて来た私の率直な感想だ。10日後のKIN214(G12/23)に行われる「時空のサーファークラス」も、初心者にはちょっと?なところがあるかもしれないが、「文化による平和」「改暦による平和」というコンセプトにピンと来る方なら、全くの初心者でも心配はいらない。

尚、クルー渓谷にあるミュージアムについて、私たちが知っている最新情報は、2013年にNYのレーリヒ美術館を訪れた時の様子をまとめたメルマガに詳しく書いてあるので、そちらを参照頂ければと思う。そして最後に、没後70周年を記念する情報を一つ。『シンクロニック・ジャーニー』P70には、アグエイアス夫妻がアルタイに招かれた経緯が、レーリヒと関連付けて書かれている(今発見した)。


(*1)13ヶ月の「惑星奉仕のウェイブスペル」で見ると、1-6-11という「倍音パルサー」に対応する月にこの現象が生じる。

(*2)365日暦の元旦をG7/26で固定しているのは『13の月の暦(ドリームスペル)』であり、古代のハアブでは、異なる日付に元旦が巡って来る。この辺りの事は『マヤのリズム』に詳しく整理してある。

(*3)確認のために開いたレーリヒ著『シャンバラの道』(中央アート出版社)のP397に驚くべき記述を発見したのでメモしておく。「アメリカのドル紙幣の裏側に印刷されている目が描かれたピラミッドの絵(フリーメーソンの象徴)は、レーリヒ発案になるものだという。」(引用おわり)。前にも読んでいるはずだが、今日、新たに発見した気分。
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秋の九品仏にチベットを発見!

2017年12月04日 01:16

■倍音の月19日 (G12/3) KIN194 白い水晶の魔法使い (by L)

2017年・秋の九品仏。二子玉川から10分足らず、オススメの紅葉スポットです。

いままで何度も訪れていますが、今年初めて、日本人として最初にチベットに入った僧、河口慧海の記念碑を見つけました。石碑に光が当たるタイミングに居合わせたせいです。キラリと光る「ヒマラヤ」の4文字が目に飛び込んできて、よくよく読んだら河口慧海の石碑でした。

後で調べると、彼に関する石碑は世界に3つあり、一つは私たちが毎年訪れているボーダーのストゥーパ。一つは書の稽古場の前の九品仏。もう一つは同じ世田谷区の桜新町(河口慧海の住居跡とのこと)。いずれにせよ、チベットを身近に感じた午後でした。

九品仏2017 

ちなみに調べると、僧侶であり探検家でもあった河口慧海の銀河の署名は KIN179/青い惑星の嵐。これは、吉村作治氏(エジプト学者)、刀根山光人氏(メキシコを旅した美術家。彼によるパレンケ、パカル王の石棺拓本は世田谷美術館に収蔵されている)と同じであり、そして私たちが今年カトマンズから帰国した日のキンなのでした。冒険家、探検家、新しい意識の世界へ旅する人のキン。来年6月にはその世田谷美術館で、天真書法塾シャンバラ教室の書の発表会を予定しているので、とても楽しみなことになってきました。

聖十字架物語と二子玉のフィレンツェ

2017年03月04日 22:34

銀河の月26日(G3/4)KIN180 黄色いスペクトルの太陽(by D)

昨日、G3/3は、ルクソールの「王家の谷」でツタンカーメンのミイラと対面した日(KIN14)からぴったり9(3×3)年目に当たる日だった(『マヤのリズム』P154〜参照)。その日が、エジプト考古学者・吉村作治氏の104(52×2)回目の銀河の誕生日(KIN179)と重なっていたのだから、私達にとって面白い日になるのは、最初から決まっているようなものであった。

午後に世田谷美術館で行われた「美術講座」の内容は、「フィレンツェのサンタ・クローチェ教会大礼拝堂壁画の修復」。「世田谷美術館友の会」が主催するこの講座の事を知ったは、開催日(昨日)のぴったり30日前で、全くの偶然だった。その経緯から少しずつ整理してみたい。
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昨年9月、美しいシンクロニシティに導かれてフィレンツェ、ピサ、ローマを訪れたことは、現在メルマガに連載中の「 ルネサンスの都へ」に書いている通りで、その中でも特に驚いたシンクロについては、「ダヴィンチ・フィレンツェ・チブレオ・モリコーネ」という記事にまとめた通りである。

イタリアから戻ってすぐの10月から、Eテレで「旅するイタリア語」の放映が始まった。その何度目かに、漫画家のヤマザキマリさんが登場して、マザッチオの解説をしたことがあったのだが、その切り口にLが痛く共感したらしく、以降、彼女のエッセーを連発で図書館から借りて来るようになった。

KIN149(G2/1)、二子玉のフィレンツェと私達が呼ぶ行きつけの店「エテルニータ」でランチをした後、Lがライズにある図書館出張所にヤマザキさんの本を返しに行くというので、その場で同行する事にした。普段ならランチ後は各々の用事に向けて解散する流れになるのだが、何故かその日はぶらぶらしたい気分で、借りまくった本を抱えているLを助ける訳でもなく(笑)、ただ散歩がてら付いて行ったのだった。

Lがカウンターで手続きをしている間、入口付近でボーっとしていたら、次の返却者が入って来た。人が集中する事があまりない窓口は狭く、居場所に困って奥のスペースに移動しつつふと振り返ると、チラシコーナーで「フィレンツェのサンタ・クローチェ教会」というタイトルが目に飛び込んで来た。サンタクローチェ教会に日本人が関わっているというだけで驚きだったが、宮下孝晴氏という講師の略歴を見ると、何と学芸大卒(先輩に当たる)でイタリアに11年在住、さらに金沢大の名誉教授とある。

昨年5月下旬に、ピサから剣武天真流の合宿(石川県志賀町)にやって来たニコロとジュリアーノが、「YOUは何しに日本へ?」の取材を受け(参考ブログ)、それが7月に放映され、9月に彼らにピサで再会した事はメルマガに書いた通りだが、合宿時に彼らと最初に顔を合わせたのは金沢駅構内だったのだから、これはキテる。しかも、昨年の5月には数年後にという話だったピサ(ヴィコピサーノ)での剣武合宿が今年に決まり、5月に再びピサとフィレンツェを訪れる流れになっているのだ。

加えて、そのチラシを目にしたKIN149は、パレンケの「碑銘の神殿」で『テレクトノン』をプレイし、パカル王の石棺を直に目にした日からツォルキン(260日暦)が25回巡ったタイミング(『13の月の暦』の数え方で)であり、世田谷美術館には、利根山光人氏による「パカル王石棺の実物大拓本」が保管されているのである。その拓本の存在を知った経緯は「パカル王からの呼びかけ」にまとめてあるが、今、それを再読して驚いたのは、「旅するイタリア語」が始まったのと同じ昨年10月にその拓本を目にした時、利根山氏の誕生キン(KIN179)も調べていて、それが世田谷美術館での講座開催日と完全にシンクロしていた事だ。

図書館窓口に私が同行していなければ、そしてその瞬間、次の返却者が窓口を訪れていなかったら、私はもちろんLも「美術講座」のチラシを目にする事は無かっただろう(そういう場所に置いてあったのだ)。当然、そんな貴重な機会がある事も知らずに、今日という日を迎えていたに違い無い。こうした「呼ばれてる」状態の時は、予定も必ず空いているもので、G3/3(KIN179)に参加可能だと判明するや、即、(Lが)往復はがきでの申込みを済ませたのだった。

そして昨日、宮下先生による講演「フィレンツェのサンタ・クローチェ教会 大礼拝堂壁画の修復」を聴講してきた訳である。会場入口で配られた絵はがき(嬉しいプレゼント)は、ルネサンス萌芽期の少し前に活躍したアーニョロ・ガッディによるフレスコ画で、会場のプロジェクターにも同じ絵が映し出されていた。思いがけない寄付(2億円!)から始まったという先生の修復プロジェクトのお話は、修復対象となったフレスコ壁画『聖十字架物語』の内容にも劣らぬ面白さで、一気に引き込まれてしまった。
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「前例が無い事はやらない主義」の官僚機構や、視聴者受けばかり狙う番組制作者達との仕事の進め方、怠けがちなイタリア人に期日を守らせる方法、修復先の選び方など、話の内容だけでなくその切り口にも、先生の魅力的な生き様が反映されていて、どうりで私達のアンテナが反応するはずだと深く納得。もちろん、フレスコ画の具体的技法や修復についての諸々(特に文化財保存に対する倫理)も大変勉強になった。金沢大学のサイトにもほぼ同内容のものが掲載されているので、美術史や文化財、そしてフィレンツェに関心のある方は、是非ご覧になる事をおすすめしたい。

1999年のNHKテレビ人間講座に出演されていた頃からのファンの方も参加されていた中、30日前に先生の存在を知ったばかりの私達は、全くの新参者であったが、諸々のシンクロに感じる所があり、終了後ずうずうしくも先生に御礼をお伝えしつつ、記念撮影をお願いした。講演中に「金沢大と宮下の名前を出せば壁画の間近まで入れてもらえる」とおっしゃっていたので、「写真があればもっと話が早いだろう」という魂胆だったが、ご快諾下さったばかりか、学芸大時代は書道科だったというお話も聞けて、ますますご縁を感じてしまった。
宮下先生 
先にサンタクローチェ教会を訪れた時に、『聖十字架物語』の壁画は目にしていて、写真にも収めていたが、まさかその修復に日本人が関わっていたとは思っていなかったし、物語の背景も制作者も知らなかったので、サーっと通り過ぎていた(他にも見どころが沢山あるので)。今回、このタイミングで宮下先生からお話を聞けたことで、俄然興味が湧いたので、5月に再訪する時は、先生との写真を印籠に、じっくりと『聖十字架物語』を見直してみたいと思う。

それにしても、一連の出来事と『13の月の暦』情報とのシンクロ率は異常に高く、シンクロが常態化している私が、久々に戦慄を覚えるレベル。何しろ、世田谷美術館に「パカル王の石棺拓本」が保管されているのを知ったのは、まだ数ヶ月前の話。金沢大学とサンタクローチェ教会、国立フィレンツェ修復研究所との国際共同プロジェクトの合意書が調印されたのは2004年6月(まさに私達が二子玉川に住み始めたタイミング)で、そこから2013年までの9年間(修復作業自体は2011年6月までの6年)、そのプロジェクトを統括されていたのが宮下先生なのだ。

この2004〜2013年の9年間は、『時間の法則の20の銘板』(以下『20の銘板』)の「9人の時間の主の領域」に対応し、この「9人の主」とは、「碑銘の神殿」のパカル王の墓室のレリーフに由来するものでもあるからだ。しかも、「16年間のテレクトノン」というサブタイトルを持つ『20の銘板』は、パカルの石棺レリーフの十字架とリンクした「木の道」というより糸から始まる。一方、サンタクローチェの『聖十字架物語』の主人公は「木」で、新約・旧約両聖書をクロスする、大変興味深い内容である(マリアやキリストは直接的には登場しない)。

確かに「十字架」は、世界で普遍的に見られモチーフの一つではあるが、ここまでの一致度は『20の銘板』日本語版の制作世話人をしていた私には、ちょっとゾッとするものがある。例えば、私が宮下先生の講演を聞く場所は、別に世田谷美術館で無くても良い訳だし、パカルの石棺拓本がその美術館に保管されているのを知るタイミングだって、もっと前でももっと後でも良かったはずだ。しかし、そのタイミングは全て、私にとっての最初のフィレンツェ訪問から次のフィレンツェ訪問までの間(ほぼぴったり260日間の期間)に生じたのだ。

さらに話は昨夜の晩餐にも繋がる。店内にフィレンツェの旗を掲げる程フィレンツェが大好きな五十嵐さんのお店「エテルニータ」が、3月一杯「12周年記念マリアージュコース」をやっていると知ったので、サンタクローチェ教会の講演を聞いた晩は、エテルニータの12周年と、シャンバラ教室の7周年(G3/10で)を祝して、そのコースを頂こうと決めていたのだ。
いわし ワイン 
それで、実際に何時がエテルニータのオープン日だったのかを改めて確認してみると、2005年2月23日(KIN211)と判明。私達が二子玉川に越して来た2004年6月8日(KIN211)からぴったり260日後がオープン日だった事を、12年通って初めて知った。何故その日にしたのかの理由がまた素晴しく、やはり私達が共鳴できる人々というのは、押さえ所が似ているのだなと思ったが、KIN211と言えば、私よりぴったり30日前に生まれ、ハーモニック・コンバージェンス(1987年)の直後に他界したホゼの息子ジョッシュの誕生キン。

そのジョッシュに捧げられた本『時空のサーファー』を通じて、21年前にマヤの暦世界(マヤ暦そのものではない)に入った私にしてみれば、美術講座開催のぴったり30日前、パレンケと繋がる特別なタイミングにその情報を知った事も無関係とは思えなくなる。それに直近のKIN211は2016年7月18日で、その日は、シネスイッチ銀座で『ウフィツィ美術館』という映画を観ているのだ。

冒頭に紹介した『マヤのリズム』は、引っ越し7周年の2011年6月8日(KIN166)に発刊されたもので(ちょうどこの頃サンタクローチェ壁画の修復が完了した模様)、その260日後が皇太子さま(KIN166)の52才、つまり『13の月の暦』でのカレンダーラウンドであり、「エテルニータ」7周年だった訳だ。ここまで書いて来て、やっと全ての繋がりが明らかになった。ちなみに発刊日をその日にしたのは、編集者の天野照久氏の誕生日であり、その260日前が安倍首相の誕生日、その260日後が皇太子さまの誕生日と知っていたからである(本書には安倍昭恵さんから私宛に届いたメールも掲載している)。
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この『マヤのリズム』の「エジプトからの呼びかけ」という節に、9年前の3/3(KIN14)、ツタンカーメンのミイラに出会った事が書いてあるのだが、その日の晩、私達はルクソールからギザに向かって鉄道で移動をしている。そこからさらに52年前の3/3(KIN14)、3000年前の前世記憶を持っていた女性考古学者オンム・セティがカイロからルクソールへと列車で移動した事が、彼女の生涯を描いた作品『転生ー古代エジプトから甦った女考古学者』に書かれているのだ。

この本との出会いも奇跡的であったが、本書によれば彼女の誕生キンは私と同じKIN241であり、発刊日は私達の結婚記念キンであるKIN171である。そして、皇太子さまと「エテルニータ」という店の、今年の「運命の道筋」は、9日前、そのKIN171になったばかりである。

「エテルニータ」はイタリア語で「永遠」の意味。コード番号14の「白い魔法使い」のキーワードは「永遠」であり、『マヤのリズム』にエジプトの話が書いてあるページは154(11・魔法使い)から。「王家の谷」で最初に入ったのがKV14だった事もそこには書いてある。まだまだいくらでもあるが(*)、いい加減、この辺りまでにしておこう…と思ったら、来週の『世界ふしぎ発見』はギザのピラミッドらしいので、ここまでメモしておしまい(笑)。


*こういう体験をもたらし、同時に体験するのが「時のからだ」と私が名付けたで「からだ」であり、それを思いきり活性化させる場が「時のからだ塾」である。

*自分用メモ。『前世への冒険』のアルベルティとデジデリオ。アルベルティ礼拝堂。トリノ五輪と「サムライとトリノ展」

パカル王からの呼びかけー日本とメキシコを繋ぐ「時の魔法」

2016年10月15日 23:36

電気の月26日(G10/15)KIN40 黄色い磁気の太陽(by D)

天真書法塾の道友にMさん(KIN38)という方がいる。もともと『13の月の暦』を通じて知りあったのだが、数年前にLの個展にいらして下さった後くらいに、本部クラスに入塾された。私達とはクラスが違うので、普段、顔を合わせることは無いのだが、10/10(KIN35)、天真会のメーリングリストにとても興味深い投稿をされていた。

NHK BS1で放映された特集番組「チャスラフスカ もう一つの肖像 ~知られざる激動の人生」を見ていて、青木天外塾長(KIN245)の書が、チャスラフスカさんの自室に飾られていたのを目にしたという内容だった。ベラ・チャスラフスカさんは、その優美な演技により東京五輪の名花と讃えられ、メキシコ五輪と合わせて女子体操で2度総合優勝し、計7個の金メダルを獲得したチェコ代表の体操選手。
希望 
2012年に書の展示と剣の演武でチェコを訪れた事と、その時にチャスラフスカさんにお会いした事は、『霊性のアート』に、彼女の誕生キンがKIN165で、チェコ訪問時の青木先生の道筋(KIN165)と完全にシンクロしていた事と共に記しているが、今年の夏(8/30)に彼女が癌で亡くなっていた事は、Mさんの投稿によって初めて知った。
先生と 
民主化運動を支持していた関係で、共産主義政権下で非常に困難な人生を歩み続け、更に、離婚した夫が次男とのトラブルの末に死亡するという事件などもあって、長い間うつ状態であったとも言われている。共産党体制崩壊後は、ハベル大統領のアドバイザー及びチェコ・日本協会の名誉総裁に就任し、後チェコオリンピック委員会の総裁も務められていたが、直接お会いしてみて分かったのは、何より人として素晴らしい方だという事。やはり、その人の生き様というのは、存在感に現れるものなのだ。
ベナトキ 
上記のような背景から、青木先生は激励の意味も込めて、日本語とチェコ語で「希望」と書いて贈ろうとされていたのだが、チェコ訪問時には法的にそれが叶わないという事情があって、諦めていたとのこと。そんな訳で、チャスラフスカさんがその書を自室に飾っていた事は、今回のMさんからの報告があるまで全くご存知なかったというのだから、人の機縁とは不思議なものである。
大 
Lが主宰しているシャンバラ教室は、その天真書法塾の支部教室に当たり、私も瞑想体操の指導で関わっているのだが、チャスラフスカさんの話を知る1週間ほど前、教室生のOさんが、世田谷美術館利根山光人による拓本「パカル王の石棺」が展示されている事を教えて下さった。以前、ジュエリーデザイナーの北村公晴さん(KIN10)に、雑誌に掲載された赤い拓本を見せていただいた事がある(「7つの世代の書」とカミーノ)ので、現物があるなら見ておきたいと思ったし、《時の魔法・ドリームスペル展》前なので、タイミング的にも完璧だ。

今回は10/23までの展示との事なので、それまでにと思っていたら、KIN37(G10/12)のシャンバラ教室で、今度はIさんから「パカルの拓本」を見たと、興奮気味に教えられた。OさんもIさんも、実は企画展の「志村ふくみ展」を見に行っていて、拓本の方は思いがけず目にしたとの事だったが、Oさんは『テレクトノン』における唯一の「パカルの特別な数字」(石棺の縁の日付と関連)であるKIN78だし、Iさんはパレンケの「赤の女王」(「碑銘の神殿」の隣のピラミッドに埋葬されていた)と結びつけられるKIN185(ホゼの最後のパートナーだったステファニーのKINでもある)。

もともと、KIN38(冒頭のMさんの誕生KINだ)に訪れるつもりでいたところに、この2人から話を聞いたことで、私はパカル(&ホゼ)が「早く来い」と使者をよこしたかのように思えた。実は世田谷区民になって12年、何と世田谷美術館は初体験。最初に「志村ふくみー母衣(ぼろ)への回帰」で絹糸の色と織の美しさを堪能し、それから2Fで行われていた「神々の森」へ。

そこに待ち受けていた「パカル王の石棺拓本」は、思っていた以上の大きさと迫力があった(色が赤ではなく墨色だったのもちょっとした驚きだった)。他にボナンパクとチチェン・イツァ(のジャガーと鷲)、そしてパレンケ十字の神殿の拓本があったが、やはりパカルの拓本が圧倒的だった。私もLも、現地で実物を目にしているのだが、墓室の中で水平に置かれた石板を見るのと、その拓本を縦向きに軸装したのとでは印象が全く異なる。拓本だと細かいデザインもはっきり見えて、マヤ文明が最も洗練されていた頃の芸術とそのエネルギーを、じっくりと味わう事が出来た。

それにしても、利根山氏の事を最初に教えて下さったのがKIN10の北村さんだったのは、何とも興味深い。何故なら、前日配信した最新のメルマガ(vol.64)では、KIN10の荒木氏と台風10号の事を書いていたからだ。美術館からの帰り道、10-10ナンバーの車と11ナンバーの車をそれぞれ2,3度見てしまったのは、単に自分がその数に注目していたからなのだろうか(後から考えるとG10/10もリンクしていたように思える)。

このパカル王石棺の拓本が世田谷美術館の所蔵だと言う事は、今回の展示を通じて初めて知ったが、昨年、この美術館に至近の病院に11日間も入院する事になったのも、もしかしたら何か関係があったのかもしれない。何故なら、パカルはパレンケ王朝11代目の王で、KIN11のホゼはそのパカルの声を聞いて『ドリームスペル』を生み出したからだ。ちなみに、KIN11は「銀河の音」も「紋章コードNo」も11である。

気になって利根山氏の誕生キンも調べると、KIN179(10・嵐)で生まれKIN146(3・橋渡し)で死んでいる。メルマガでは、KIN186(4・橋渡し)で生まれKIN219(11・嵐)で死んだダヴィンチの事を書いたが、どちらも生死の間が33キンであり、嵐ー橋渡し、橋渡しー嵐という反転の関係になっている。従って、どちらも「銀河の音」の差は「7」で、「紋章コードNo」の差は「13」である。そして、パカルの石棺には「3つ玉」のデザインを11見出す事ができる。

利根山光人は、茨城に生まれ、メキシコを題材とした作品を多く残し「太陽の画家」と呼ばれたらしいが、晩年は岩手の北上で過ごして、「鬼剣舞」を題材にした作品も製作されていたようである。私が鬼剣舞について知ったのは、宮沢賢治(KIN131)を通じて、昨年の自分の誕生日直前になってから(鎌倉みちのく魔術紀行(2))。誕生日当日(KIN131)は、江ノ島、鎌倉をウェイブスペル回りに巡る魔術的小旅行を実施したのだが、その時、遥かな空間を越えてシンクロした人物と、今日、久しぶりにお会い出来たのも不思議な縁である。

また、志村ふくみさんがKIN245(11・蛇)と分かったのも、大いなる驚きだった。何故なら、青木先生と同じ誕生キンであり、青木先生が開かれた天真書法塾の縁で、今回、チャスラフスカさんやパカル王の拓本との繋がりも発見されたからだ。この流れをきっかけに1964年の東京五輪を調べたら、何とMさんが天真会MLに投稿した10/10(KIN35)のピッタリ52年前の10/10(KIN35)〜10/24(KIN49=7×7)が開催期間だったと判明。つまり、今と全く同じ周期(365日暦も260日暦も)の52年前に、チャスラフスカさんは東京五輪で活躍していたのだ。

この流れは全て、2週間後に渋谷で行われる《時の魔法・ドリームスペル展》と密接にリンクしている。展示予定のホゼのコラージュ作品には、当然「パカル王の石棺」が含まれているし、会場最寄り(徒歩5分)の渋谷駅には、岡本太郎の巨大壁画「明日の神話」が設置されている。この作品は、もともとメキシコ五輪とリンクして制作されたものであるだけでなく、太郎が以下のような意図を込めたものなのだ。「原爆が爆発し、世界は混乱するが、人間はその災い、運命を乗り越え未来を切り開いて行く―といった気持ちを表現した」。
時の魔法展 
ドリームスペル展は、広島原爆投下(KIN55)から『13の月の暦』のツォルキン(260日暦)が100回巡ったタイミングに開かれる。それは、単にホゼの作品を公開するだけの場ではなく、同じKIN55に、ホゼとロイディーンによって呼びかけられた平和の祭典「ハーモニック・コンバージェンス」、あるいは「明日の神話」の意図とも重なる「災いの反転と、調和的未来への祈り」が込められた「時の魔法」の実践的な行為でもあるのだ。
ホゼ作品 
そして、このタイミングにチャスラフスカさんに焦点が当たった事も、おそらく深いレベルで関係しているのだと、私は考えている。何故なら、彼女が合計7つもの金メダルを手にしたのは、東京五輪とそれに続くメキシコ五輪での事だったからだ。利根山光人が拓本を取ったパレンケ遺跡はメキシコにあり、「明日の神話」はメキシコで数奇な運命を辿って東京渋谷に戻って来た。その作者、岡本太郎は、多摩川の対岸、我が家から数百mのところで生まれている。

以上、何とかここ数日の間に生じた出来事を整理してみたが、今日、ある方から10/10(KIN35)にご家族が他界されたという連絡があった。80才というその年齢は、まさにパカル王の生涯と重なる。そして「電気の月26日」のサイ時間単位はKIN218(10・鏡)。1952年6月15日に「碑銘の神殿」でパカル王の墓室が発見された、まさにその日に対応する。この一連の流れを「パカル王からの呼びかけ」と感じた方は、2週間後、渋谷でお会いする事になっている方であろう。

*KIN38のMさんが広島出身だったと気づいて、また驚かされた

パレンケとダ・ヴィンチが「青いスペクトルの嵐」を呼ぶ

2016年07月28日 15:25

磁気の月3日(G7/28)KIN221 赤い宇宙の竜(by D)

銀河新年、明けましておめでとうございます!

元旦から今日までの3日間(3が日?)は、サイ時間単位がKIN1(1・竜)という事で、遅ればせながら新年のご挨拶。さて、今年も元旦から凄いことになっていて、まさに「青いスペクトルの嵐」という時空の大波に乗っているのを感じる日々。
碑銘の神殿 ★1999年4月12日(KIN149)に自分が現地で撮影してプリント保管していたものを、最近デジカメで再撮影したもの

新年は【Mauiと横浜の次元間通路を解き放つ!219Party】と題された横浜ナディアでのイベントからスタート。「赤い惑星と青い惑星のエリジウム」という過去記事に書いた通り、そのきっかけは、GWの頃手に入れた吉本ばななさんの『イヤシノウタ』と、ナディアスタッフ・チャカのシンクロにあった。しかし、その時にオーナーのゆみこさんと決めた事は、「元旦に何か一緒にやりましょう!」だけ。

結局、午前は定期的にナディアで行っている「13の月の暦」基礎クラスを私が担当すること、そして、午後は「小原とゆみこのシンクロ喋り倒し」、夜は「天真レムリア瞑想会」というタイトルだけが決まっていて、当日も一切打ち合わせをしないままいきなり本番(笑)。

参加者の立場からすると「それってどうなの?」という方もいらしたかもしれないが、その場で起こる出来事そのものからサインと流れを読み取るやり方を、ゆみこさんも私も普段からやって来ているので、互いに必要性を感じなかったのだと思うし、そこに生じるライブな「場」を信頼しているからこそ、自然にそうなったとも言える。何より、以下の条件が揃っている時点で、「その時、その場に居ること」が最重要ポイントだと言うのが分かる。

即ち、『ドリームスペル(13の月の暦)』誕生の地マウイに今ナディアがあり(私がナディアに関わり始めた15年余り前にはまだ存在していなかった)、ナディアを運営しているゆみこさん(KIN219=元旦)と岡部さん(KIN63=時間をはずした日)が「青いスペクトルの嵐の年」全体を表し、かつて私が勤めていた会社のボスでもあった江本勝氏とマヤ暦やドリームスペルについて書いた共著『銀河のマヤ』の表紙がシャスタ山で、当日の会場名はシャスタ(303号室)だということだ。

結果、平日だったにも関わらず、参加者(ゆみこさんと私を除く)は、第一部8名、第二部14名、第三部11名の累積合計33名で、1,2部の合計は22名。『ドリームスペル(13の月の暦)』提唱者のホゼとロイディーンはKIN11とKIN22で、2013→20:13→20+13=33。33はツォルキンの中心調波であり、秘技参入の聖数。まさに、銀河からの招待状を受け取った然るべき方々がそこに集ったと言えよう。皆さんと共に新年を祝えた事に感謝したい。

後から気付いた事だが、私(KIN241)とゆみこさん(KIN219)のKINの差は22(13+9)で、ナディアは今年の7/21で22周年を迎えていた。午前中のクラスでは「運命の道筋」について触れたが、先の7/21はKIN214だったので、5年後、そこにはKIN219(=ゆみこさんの誕生キン)が巡って来る。つまり、5年後、ナディアというお店は、オーナーのゆみこさんと完全同期するのだ。

ちなみに、現在のゆみこさんの道筋はKIN164(8・種)で、アグエイアス夫妻が提示した全銀河ツールの目標点2013年7月26日=「銀河の同期」そのもの。今年の元旦にゆみこさんと同じ場に居るということの意味が、初心者でも何となく分かるのではないだろうか?あの会場に居た人は、今年一年、そして「銀河の同期」にも出会っていたのだ。

午前のクラスで、例題に立候補されたKさんがKIN209(1・月)だった事も見逃せない。何故なら、KIN209は、年末年始に橋をかける今日までの13日間(ウェイブスペル)の始まりであっただけでなく、魅惑の緑の中央の城(52日間)への入口であり、同時に、ドリームスペル創世記において、「時間の盗み」に関する非常に重要な意味を持つ日付だからだ。まさに役者は揃ったという感じであった。

しかし、驚きは午後になってさらに加速。その場に居た全16名のうち何と5名が「空歩く者」で、しかもマヤ長期暦をツォルキンにプロットした見方をすると、まさにパカル王が活躍した最後のカトゥン(20年弱)に対応するKIN193の方が2名もいたのだ。さらに、座っている場所も、部屋の「北側」に異常な密度で集合。
IMG_8269.jpg ★「昼の部」の参加者の「銀河の署名」

加えて、話の方も、ゆみこさんの「限定された小さい自分の死」から始まって、「死」が一つのテーマになっていた。これは『ドリームスペル』の旅程盤において「交差の白い北の城」(の52KIN)、より細かく見れば、その中でも最も北の領域に関係する「世界の橋渡し」のウェイブスペル(の13KIN)に繋がっていた。

「火星」からのサインは、既にこの会のきっかけとして強力にやって来ていたので、それに見合う資料を一応用意して来てはいたが、場合によっては全く異なる流れになる事もあるので、私は必要になったらそれを紹介しようと考えていた。しかし、これだけ明確に方向が示されたのであれば(「世界の橋渡し」と「空歩く者」はドリームスペルにおいて火星軌道に対応)、やはり「火星」について語るしか無かろう。そこで、私は『アルクトゥルス・プローブ』のP219から、以下の文を読み上げた。

”南半球側の火星の「空歩く者」の後見人となったアンタレス人は、土星からのアンタレス人に潜入され、浸透されてしまった。第7惑星からのアンタレス人の影響を通して、「空歩く者」は巨大な文明を創り出した。”

”火星の北の領域では、「世界の橋渡し」の部族がエリジアムと呼ばれる帝国を築き上げていた。”

”死の領域は実際に銀河の北の大きな次元間領域を構成しており、そこはそれぞれの存在の真実が保存されている場所だった。”

さらに、「赤い惑星、青い惑星」が収録されている『アルクトゥルスの監視』のP73からも、以下の部分を読み上げた。

”青い惑星のサイバンクに刻印された、赤い惑星の「銀河の記憶ノード」は、イタリア人の天文学者、スキアパレリが自分の望遠鏡を通して火星を見つめていたときに活性化された。彼が有名な火星の「運河」を発見したことに加えて、赤い惑星は原型的な名称でそのきわだった特徴をはっきりと示すことになった。すなわち、アトランティス、レムリア、ユートピア、エリジアム(エリシュウム)、シドニア、オリンポス山、などである。”

IMG_8270.jpg ★「夜の部」の参加者の「銀河の署名」

話は、「小さな自己の死と大いなる自己の誕生」「男性性や女性性と言った両極性の調和と融合」など、かなり本質的な所にまで進んで行ったが、その流れは、体験を身体に浸透させようという「夜の部」に引き継がれて言った。遠方から仕事を休んで参加された方も多く、メンバーは各部ごと少しずつ入れ替わって行ったが、最後は、私が天真体道の天真柔操と「ワカメ体操」(瞑想組手・水・風)を通じて、相手と融け合い自他や両極性の溶融を体感するワークを担当し、その後、瞑想へ。

集団でのワカメからゼロ(無)へ向かう瞑想では、滅多に体験できないような「深い静けさ」を体感しつつ、瞑想状態のままリードをゆみこさんへとバトンタッチする荒技に出てしまったが、にもかかわらず、全く切れ目無く極めて自然な流れの中でそれが成されたのは、ゆみこさんの自由度の高さ、そして、その場の調和度の高さを、証明していたように思えた。その静まりきった場を通じて、私は「銀河連盟は静かにやって来る」というフレーズを実感していた。

この日、リクエストもあって、何度も唱えた「銀河の七方向への祈り」は、『宇宙の暦は13ヶ月・新装版』のP219に掲載されている。この本が書かれた頃、KIN219という日にKIN219の人と一緒に行うイベントで、こんなに何度も唱えるとは思って居なかったが、やはり、219ページに掲載された事にも意味はあったのだろう。
IMG_8271.jpg ★元旦の全プログラムを終了して記念撮影

大幅に時間オーバーしつつ、全プログラムが無事終了。最後まで居て下さった方々(全11名=スペクトル)との記念撮影を終え、シャスタを出た頃には、もう21:30を回っていたから、途中、休み休みだったとは言え、10時間くらいはしゃべり続けていたのではないかと思う。しかし、ほぼ目一杯の満席状態のような状況だったのにも関わらず、そして、実は6日間断食からの復食2日目だったにも関わらず、疲れを感じる事は無かった。それだけ参加者全員が時空と調和していたのだと思う。

だが、帰宅後、さらなる驚きが待ち構えていた!何と【マヤ文明ピラミッドの下に水路発見、死者の国への通路か】というニュースが、AFPで報じられていたのだ!『13の月の暦(ドリームスペル)』は、ある意味、そのニュースで報じられている「碑銘の神殿」に眠っていたパカル王からのチャネルで生み出されたような所がある暦だ。

現地での発表は「時間をはずした日(7/25)」となっていたが、「死」(世界の橋渡し)や「水」(月)について、そしてパレンケの「碑銘の神殿」の構造がそのままボードに反映されている『テレクトノン』を、実際に開いてプレイした(午後の時間)後に、このニュースを目にすれば、やはり、驚かずにはいられない。仮に、発表のタイミングを、世界的に使われている『13の月の暦』の「時間をはずした日」を狙って行っているのだとしても、「水路」の発見自体がなければ、ニュースには成り得ない。

それに、今年の「時間をはずした日」(注:マヤ暦にはこういう日は存在しない)はKIN218(10・鏡)で、まさに「碑銘の神殿」でパカル王の墓室が発見された1952.6.15からぴったり90銀河スピン=23400キンというタイミング(閏日の処理をドリームスペルの数え方に従った場合)。人の作為が間に挟まっていたとしても、あまりに見事だ(*1)。少なくとも、ナディアの場は、完璧にパレンケと共鳴していたという事だ。「死」と「水」がはっきりと示されていた通り。

しかし、最後にもう一押しあった。翌日(KIN220)、私はLが予約してくれていたイタリア文化会館での講演会「レオナルド・ダ・ヴィンチ 最後の謎-なぜ未完の作品を多く残したのか」に参加した。『レオナルド・ダ・ヴィンチの秘密 天才の挫折と輝き』出版イベントとして、イタリアから著者のコスタンティーノ・ドラッツィオが来日していたのだ。結論から言えば、参加して非常に良かった。
最後の晩餐 ★最後の晩餐の解説をするドラッツィオ氏

だが、このブログの最後に書いておきたいのは、その講演会の事というより、ダ・ヴィンチの生没年なのだ。以下にそれを記してこの記事を終える。尚、両日とも書籍やネット上に出ているユリウス暦でのものをグレゴリオ暦に変換してから導いているので、おそらく間違いはないと思うが、皆さんにも検証して頂きたい。

★レオナルド・ダ・ヴィンチ
生年:1452年4月24日、KIN186(4・世界の橋渡し)
没年:1519年5月12日、KIN219(11・嵐)

ちなみに、KIN186は、私が愛してやまない音楽家エンニオ・モリコーネ(イタリア人)の誕生キンであり、自分自身の49(7×7)才、つまりあと2年少し先の「運命の道筋」でもある。この発見をした時の驚きは、ここまでブログを読んで下さった方なら理解して頂けるだろう。だが、ドリームスペルプレイヤー(13の月の暦の真の使い手)は、誰でも、こういう日常を送る事になる。



(*1)先の「時間をはずした日」がKIN218となる数え方を提示したのは、アグエイアス夫妻、特にパカルの声を聞いたというホゼであり、その「時間をはずした日」に合わせて「水に愛と感謝の祈りを捧げる」イベントを世界各地で行い続けていたのは『銀河のマヤ』の共著者である江本勝氏であり、この二人を接続させたのは、「時間の法則に関する世界会議」が開催された1997年当時、江本氏の会社の一社員であり、会議のボランティアスタッフもしていた私である。 

パカル王の石棺開封から88銀河スピン

2015年08月04日 23:21

■磁気の月10日(G8/4)KIN123 青い律動の夜(by D)

13の月の暦』の365日暦で、毎月13日までを1日=1バクトゥンと置き換えて見る『テレクトノン』のやり方に従えば、今日10日はマヤが最も栄えたバクトゥン9に対応する。一方、260日暦のKIN123は、パカル王の遺体が眠っていた石棺の蓋が開いた日と言われている。

しかし、ホゼの来日講演録や邦訳書には、KIN123とあるだけでG暦の日付が無い(もしかしたら調べが足りないだけかもしれない)。パレンケ碑銘の神殿」において、パカル王の墓室が発見された日付は、1952年6月15日(KIN218)とハッキリしているので、普通に考えれば、その年の7月以降でそこから最も近いKIN123を辿れば良いという事になる。

すると1952年11月27日になるはずなのだが、日本語だけで検索すると、検証できる情報が出て来ない。それで、今更ながら英語でも調べてみると、やはり石棺の蓋が開いたのは、1952年11月27日(KIN123)である事が分かった。
石棺 ★1999年4月12日(KIN149)に撮影した石棺

英語で検索すると、スペイン語のサイトも含め複数のものが出て来るので、関心のある方は、各自検証して頂ければと思う。その中には、時間の法則財団のPDF資料も入っていて、KIN123が1952年11月27日であることは、ちゃんと書かれていた(アルベルト・ルスの言葉を使って)。

そこで、改めてこの事に意識が向いた今日までに、ツォルキンが一体何回巡ったのかを計算してみると、ぴったり88回巡った日であることが判明した。最近、【金星・空海・キトラ古墳】にも書いたように、88という数字が盛んに訴えて来ているので、これを知って、「今更ながら」という感じから、「今だからこそ」という感覚に切り替わった。

今までにも何度も気になりながら、結局、本気で追求しようとして来なかったのは、「今日調べると、きっと自分にとって一番面白いからだろう」というのが、私の身勝手な解釈である。つまり、私にとっては、88銀河スピンが完了した今が、時空からこの情報を発掘するのに最も相応しいタイミングだったと実感している訳だ。

ここで、88回巡ったというツォルキンの数え方について、少しメモしておきたい。もし、これを(石碑等に残る長期暦と連動した)マヤ暦のツォルキン(260日暦)に従って計算すれば、1952年11月27日と今日の日付は、全く違ったものになる。具体的に書こう。

1952年11月27日=9イミシュ(13暦的に表現するとKIN61)
2015年8月4日 =11キブ(13暦的に表現するとKIN76)

この現象を理解するには、グレゴリオ暦(G暦)との関係性について考える必要がある。古代であろうと現代であろうと、メソアメリカで使われて来たマヤ暦は、グレゴリオ暦の事など全く考慮していないし、する必要も無いので、G暦での閏日にも一切関係なく日付を数え続けて行く。

一方、『13の月の暦ドリームスペル)』のツォルキンは、グレゴリオ暦に対しての関係が崩れないよう、2/29を2/28の延長として数える。なぜなら、この暦は主に、物質主義的傾向を促す周波数を持つグレゴリオ暦からのシフトを意図しているからである。巷に流布している偽マヤ暦情報は、こういう所にほころびがある。

偽マヤ暦を語る人々は、『13の月の暦ドリームスペル)』からツォルキンの部分だけを独立させて扱おうとするが、それは土台無理というものなのだ。上記の通り、G暦閏日におけるツォルキンのカウント方法を見れば、それがマヤ暦では絶対にやらない、非常にイレギュラーな手法であることがハッキリするからだ。

運命が決まっていると考え、占いや鑑定をするのなら、この閏日処理の扱いにどういう意味を持たせるのだろうか。『13の月の暦ドリームスペル)』のように明確な目的を持たずに、閏日の時にツォルキンを2日続けて数える(あるいは一日休む)のだとしたら、一体何のためにそうするのだろうか。最初に誤摩化すと、結局のところ、誤摩化しの上塗りしか出来なくなるものなのだ。
宮殿 ★「碑銘の神殿」トップより「風の宮殿」を見る

「白い魔法使い」からのサイン】という記事にも書いた通り、今年はパカル王の「墓室」が開封されたG6/15にも、興味深いサイクル上のシンクロがあったが、もちろんこれも『13の月の暦ドリームスペル)』のツォルキンでないと、話の辻褄は全く合わなくなる。

何か新しい情報に出会った時は、まず、その出所をよく調べる事だ。新しいもの、珍しいものに何でも見境なく飛びつき、ロクに検証もせずに拡散しまくる人に、心から信頼できる人などいない。もちろん、私を含め、誰だって間違いは犯すものだが、多少なりとも注意深さがあれば(ほんのワンステップだけでも踏み込んで調べれば)、しょーもない情報にいちいち踊らされたり、無駄な出費をしたりせずに済むはずだ。

と、色々エラそう書いている私も、長いことずーっと勘違いしていた、なんて事はザラにある。だから、この文章は、自分自身への戒めとして書いているものでもあるのだ。

例えば、『銀河のマヤ、聖なる時の秘密』の中でも、私はパカル王の誕生KINについて、マヤ長期暦と連動したツォルキンでの誕生日(上記の石棺に刻まれたもの)と、『13の月の暦ドリームスペル)』のツォルキンで計算した誕生日とが異なる事を、具体的に例示している。

しかし、その事(2つの違い)に気付いたのは、『13の月の暦』を使い始めて15年以上も経ってからの話で、それまでは、パカル王の誕生日と言えばKIN60(8・太陽)というように、ホゼが書いていた情報をそのまま鵜呑みにしていたのだ。

その背後には、「その分野に詳しい人(権威)が言っているのだから間違いないだろう」という依存と、「何か変だぞ?」という所を面倒くさがって調べず放置した怠慢と、「本気で知りたい!」という熱意の無さが、横たわっていたのだと思う(自ら省みるに)。

巷で『13の月の暦(ドリームスペル)』を一部引用した”偽マヤ暦”が、マヤ暦として伝わってしまっているのも、きっと、それを扱う一人一人の中に、そういう無意識的で無自覚な「依存、怠慢、無気力」みたいなものが、あるからではないだろうか。

とは言え、せめて「自分が教わった事は間違っているかもしれない」という見方と、間違いがハッキリした時には直ちに修正するという心がけは、忘れないようにしていたい。ものの見方がフィックスされてしまった人は、その土台からしか物事を見られなくなってしまう。

だから、上記のような具体的情報を知っても尚、「マヤ暦」と連呼する人々もいれば、どうにか前に得た知識を無駄にしないように、と苦しまぎれな折衷案を編み出してゴマカし続ける人々もいる。それは各人の自由だが、どこかをゴマカしている内は、そういうバイブレーションが滲み出てしまうものなのだ。

最後におまけで、太陽黒点相対数の基準が、今年のG7/1(KIN89)に変わったという事をメモしておこう。今、気付いたが、これも古い基準はKIN88までであった事を示している。そして、KIN89はホゼが別な次元へと旅立ったKINでもある。『マヤン・ファクター』を通じて、新しい太陽紀の到来を予見した人物と直接的に繋がりのある日付だけに、大変興味深いシンクロだと思う。

チチェンイツァのジャガーとウサギ

2014年05月31日 23:03

水晶の月2日(G5/31)KIN213 赤い倍音の空歩く者(by D)

昨日、2ヶ月ぶりに泊まった実家で明け方に観たのは、背中に黒いジャガー(注:車ではない)を乗せてこちらに向かって来る巨大なツキノワグマの夢だった。迫力満点の恐ろしい夢だったが、熊の背中にジャガーが乗っかっていても変だと思わないところに、意識の不思議さがある。

うおおっっっ!と思った瞬間に目が覚めて、「面白かったから覚えておこう」と心に刻んでから、再び寝てしまった。だが、おかげで次に目が覚めた時にも、割とはっきりと夢の様子を思い出すことが出来た。

それにしても、ツキノワグマにジャガーなんて、どういう組み合わせなんだろうか?中米マヤの神話世界において、ジャガーは夜の太陽と結び付けられたりもするが、『13の月の暦』では、9番目の「太陽の月」のトーテムアニマルでもある。「月の輪熊」と「(夜の)太陽の象徴」…新月から満月に向かって動き始める”今”を示しているようにも取れるし、日食のイメージもある。

ちなみに、一番最近の日食はG4/29(KIN181)に南極エリアで起きた金環食。伊勢をテーマにしたLの個展「書の魔法」が始まったまさにその日だが、そのぴったり10年前に、私たちは、伊勢で結婚の報告をしている。4/29が私の誕生日から260日後で、同時にLの誕生日の260日前に当る中間点だというのが、そうした理由だ。

さて、目を覚ましてから納戸の机を整理していたら、15年前(1999年)のメキシコ旅行のアルバムが出て来た。パレンケの「碑銘の神殿」でテレクトノンをプレイしている様子を撮った写真がどこかにあったはずだと思いながら、見つけられなかったのは、実家に置きっ放しにしていたからだった。

パレンケについてはまた改めて書くとして、今回は、チチェンイツァの方に注目したい。なぜなら、春分秋分に羽毛の生えた蛇の降臨が見られるククルカンのピラミッドの内部(蒸し暑くて細いトンネル階段を登ると玄室のような部屋がある)で撮った写真に、ジャガーの玉座が写っていたからだ。
ジャガーの玉座 
この玉座は、ここでは公開できないある出来事と結び付けられている関係で、よく憶えていたが、アルバムを捲ると、すっかり記憶から抜け落ちていた子ウサギの写真が見つかった。遺跡の隅っこにへばりつくように佇んでいたこのウサギの写真を、昨日目にしたのは、なかなか美しいことなのだ。
イツァのウサギ 
何故なら、昨日から始まった「水晶の月」のトーテムアニマルは、まさにそのウサギだからである。12番目の「水晶の月(ウサギ)」と9番目の「太陽の月(ジャガー)」の差である「3」が、月の輪熊の胸元の三日月形の模様を示しているとしたら、昨日の夢は洒落ている。

というか、ツキノワグマ(3)とジャガー(9)が12番目の「ウサギの月」の始まりを知らせてくれたのかもしれない。先住民文化において、動物はこの世界だけの存在ではなく、霊的世界での力や働きをも包含した、次元間的な存在だ。

通常は起床後すぐに体操をするのが日課であるのに、昨日に限っていきなり音楽テープの整理をし始めたのは、近々処分を考えているという話が前夜に家族の間で出たからでもあるが、その殆どが学生時代に録音したものだったことで、思い出したことがあった。

理由は知らないが、大学の学食のひとつに「コパン」というマヤ遺跡にちなんだ名がつけられていたこと、そしてコパン王朝の著名な王に「18ウサギ王」がいたということだ。18ウサギ王について改めて調べてみると、コパン13代目の王として695年に即位している。

パレンケではパカルの息子、カン・バラムが活躍していた時代で、日本では持統天皇が国を治め、伊勢の式年遷宮を始めた頃だ。ちなみにカンは蛇を、バラムはジャガーを意味する。

保存しておくテープを選り分けておこうとした関係で、メキシコ旅行のアルバムを発見することになり、これら一連の繋がりにも気付くことが出来たのだから、熊とジャガーは、やはり異世界を通じて"時”を知らせてくれるメッセンジャーだったのかもしれない。

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