ダ・ヴィンチのゴールドエクスペリエンス

2017年04月25日 00:36

惑星の月21日(G4/24)KIN231 青い惑星の猿(by D)

今日は『13の月の暦』で1年(52週間)の3/4に当たる39週目(第3四半期)が完了する日。この見方が習慣になったのは、1997~2013の16年間、ツォルキンと易を結びつけてDNAとヌースフィアを再活性化させるツール『時間の法則の20の銘板』をプレイしてから。GWの【銀河のマヤ時間フェスティバル】で久々に取り上げるので、関心のある方は実物(ホゼ手書きのカラーコピーも一部公開予定)に触れられるこの機会をご活用いただければと思う。

さて、今日は「惑星の月」の「青い惑星の猿(KIN231)」ということで「銀河の音」が重なる「魔術の亀の日」でもあった。さらに、L(KIN231)の79回目の銀河の誕生日とレオナルド・ダ・ヴィンチの565回目の誕生日がシンクロするというスペシャルデイ!

ダ・ヴィンチの誕生日がLのKINとシンクロするのは52年に一回だから、ひとつ前の同期には『13の月の暦』がこの世に存在していなかったし、52年後は違う次元に飛んでる可能性が高いから、おそらくは生涯1回きりの出来事。当然、79回目の誕生日との同期、というのは完全に1度きりである。

「青いスペクトルの嵐の年」最初の記事【パレンケとダ・ヴィンチが「青いスペクトルの嵐」を呼ぶ】の最後にメモを残した通り、ダ・ヴィンチの生涯は、ユリウス暦をグレゴリオ暦に変換して計算すると、以下のようになる。
生年:1452年4月24日、KIN186(4・世界の橋渡し)
没年:1519年5月12日、KIN219(11・嵐)

本屋 
上記の本屋の写真は、ちょうど231日前にフィレンツェを発つ日の朝、宿泊先の目の前で何となく撮影したもので、帰国後、色々と調べる中で、ダ・ヴィンチが住んでいたまさにその場所だと判明したところ。

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その前日(KIN259)、つまり232日前に訪れたウフィツィ美術館では、No79の部屋にダ・ヴィンチの絵(受胎告知など)が集められていた。まさか、今日という日に、こんな形でこの数字が響いてくるとは思わなかった。おまけに、565-232=333 という関係も発見。

KIN259(G9/4)のサイ時間はKIN26で、美術館を訪れた時のLの「運命の道筋」と一致していた。その日、4日前に訪れたばかりのヴァチカンでは、マザーテレサが聖人に列せられる式典が行われていたのだが、翌日、つまり本屋(=ダ・ヴィンチが住んでいた場所)の写真を撮った日は、マザーの死後19年に当っていた。79も219も259も「青い嵐」に置き換えられる数だが、「嵐」の紋章コードNoは19である。

そう言えば、今日から4日前に『レオナルド・ダ・ヴィンチ 美と知の迷宮』という映画を見た。そこから1銀河スピン+1週間前、つまり「青いスペクトルの嵐の年」の2日目KIN220に『レオナルド・ダ・ヴィンチの謎』の著者による来日講演会を聞いた。先に挙げた【パレンケとダ・ヴィンチが「青いスペクトルの嵐」を呼ぶ】は、その翌日のKIN221に書いたものだったが、当時はまだ、それがミケランジェロの誕生キンだとは気づいていなかった(と思う)。

ダ・ヴィンチに関する新しい本を手に入れた日からぴったり5週間後に、彼が過ごした街フィレンツェを訪れ、ダ・ヴィンチに関する映画を観た日からぴったり5週間後に、再び同じ街を訪れる事になるとは、意識して行っている訳ではないだけに、不思議な(しかしある種の規則性がある)現象である。

不思議といえば、今日もまた、上記の発見以外に日常生活の中で驚きがあった。日中、諸用で自由が丘に行き、途中でメガネドラッグの超音波洗浄機を見つけた私は、喜々としてそれでメガネを洗浄をしていた。この装置、よく汚れが落ちるので重宝しているのだが、二子玉では見かけなくなって久しく、久々の再会を喜んでいたのだ。

使い終わって、「やっぱり綺麗になるなー」とLに向かって興奮気味に話していると、一人の中年男性がこっちを向きながら「オバラ!」と言っている。確かに私に向かって言っているのだが、誰だか分からず「確かに俺に向かって言ったよな…」と心の中で呟いていると、「◯◯だよ」と名乗るのとほぼ同時か少し前くらいに、あ!と分かった。何と中学時代の同級生K君であった。

この前後の感覚は非常に不思議で面白いものだったので、少しメモしておきたい。実は、メガネ店への道すがら、自由が丘で開業している医師のTさんの事を思い出していた。同じく中学の同級生だったTさんとは、何年か前の同窓会で顔を合わせていて(K君ともその時会っている)、自由が丘で開業した時に、気に入って購入してくれたLの書作品を納品に行った事があるのだ。

さらに、つい数日前、FBで面白い記事をUPしているのを見かけて「いいね」をしたばかりでもあった。だから、K君とばったり会う直前、頭の中では中学時代の記憶回路(ユスア)がある程度活性化していた状態にあったのである。それでも、一瞬、「誰だ?」と思ってしまったのは、思いがけない場所で全く予期していない人物に出会ったからだろう。

それにしても、K君はよく私だと分かったものだ。何よりそれが不思議で「どうして分かったの?」と聞いたら「変わってないから分かるよ」との事。まあ、数年前に一度会っているから、その時からはそんなに変わっていないかもしれないが(K君も変わっていなかったが)、それでも、同級生らしき人物を見つけて、パッと声をかけられるか?と問われると、あまり自信はない。とにかく、声をかけてくれたことで、今日がさらに面白い日になったのだから、彼には感謝せねばなるまい。

彼はそのメガネ店に用事があったようで、店の前で少し立ち話をして別れたのだが、その直前、気になって誕生日を聞いてみたら、G3/19で誕生KINはKIN200(5・太陽)であった。3日前のプリンス(8・太陽)の命日に、『the gold experience』というアルバムの中の319という曲を耳にしていたので、これもちょっとした驚きであった。

上記の通り、今年(青いスペクトルの嵐の年)はイタリアの風が吹き続けているが、ジョジョ第5部の舞台はイタリアで、主人公ジョルノのスタンドは、このアルバム名から取った「ゴールドエクスペリエンス」でもあるのだ。そして、319という曲は、そのアルバムの8曲目に収録されている(5と8の太陽はここにつながる)。

この驚きの再会の直後に見た車のナンバーは204で、今日のサイ時間、そしてニコライ・レーリヒとシンクロ。という訳で、第3四半期も驚きに満ちて終了とあいなった。明日から最後の13週間が始まるが、どう展開していくのかがまた楽しみになった。

聖十字架物語と二子玉のフィレンツェ

2017年03月04日 22:34

銀河の月26日(G3/4)KIN180 黄色いスペクトルの太陽(by D)

昨日、G3/3は、ルクソールの「王家の谷」でツタンカーメンのミイラと対面した日(KIN14)からぴったり9(3×3)年目に当たる日だった(『マヤのリズム』P154〜参照)。その日が、エジプト考古学者・吉村作治氏の104(52×2)回目の銀河の誕生日(KIN179)と重なっていたのだから、私達にとって面白い日になるのは、最初から決まっているようなものであった。

午後に世田谷美術館で行われた「美術講座」の内容は、「フィレンツェのサンタ・クローチェ教会大礼拝堂壁画の修復」。「世田谷美術館友の会」が主催するこの講座の事を知ったは、開催日(昨日)のぴったり30日前で、全くの偶然だった。その経緯から少しずつ整理してみたい。
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昨年9月、美しいシンクロニシティに導かれてフィレンツェ、ピサ、ローマを訪れたことは、現在メルマガに連載中の「 ルネサンスの都へ」に書いている通りで、その中でも特に驚いたシンクロについては、「ダヴィンチ・フィレンツェ・チブレオ・モリコーネ」という記事にまとめた通りである。

イタリアから戻ってすぐの10月から、Eテレで「旅するイタリア語」の放映が始まった。その何度目かに、漫画家のヤマザキマリさんが登場して、マザッチオの解説をしたことがあったのだが、その切り口にLが痛く共感したらしく、以降、彼女のエッセーを連発で図書館から借りて来るようになった。

KIN149(G2/1)、二子玉のフィレンツェと私達が呼ぶ行きつけの店「エテルニータ」でランチをした後、Lがライズにある図書館出張所にヤマザキさんの本を返しに行くというので、その場で同行する事にした。普段ならランチ後は各々の用事に向けて解散する流れになるのだが、何故かその日はぶらぶらしたい気分で、借りまくった本を抱えているLを助ける訳でもなく(笑)、ただ散歩がてら付いて行ったのだった。

Lがカウンターで手続きをしている間、入口付近でボーっとしていたら、次の返却者が入って来た。人が集中する事があまりない窓口は狭く、居場所に困って奥のスペースに移動しつつふと振り返ると、チラシコーナーで「フィレンツェのサンタ・クローチェ教会」というタイトルが目に飛び込んで来た。サンタクローチェ教会に日本人が関わっているというだけで驚きだったが、宮下孝晴氏という講師の略歴を見ると、何と学芸大卒(先輩に当たる)でイタリアに11年在住、さらに金沢大の名誉教授とある。

昨年5月下旬に、ピサから剣武天真流の合宿(石川県志賀町)にやって来たニコロとジュリアーノが、「YOUは何しに日本へ?」の取材を受け(参考ブログ)、それが7月に放映され、9月に彼らにピサで再会した事はメルマガに書いた通りだが、合宿時に彼らと最初に顔を合わせたのは金沢駅構内だったのだから、これはキテる。しかも、昨年の5月には数年後にという話だったピサ(ヴィコピサーノ)での剣武合宿が今年に決まり、5月に再びピサとフィレンツェを訪れる流れになっているのだ。

加えて、そのチラシを目にしたKIN149は、パレンケの「碑銘の神殿」で『テレクトノン』をプレイし、パカル王の石棺を直に目にした日からツォルキン(260日暦)が25回巡ったタイミング(『13の月の暦』の数え方で)であり、世田谷美術館には、利根山光人氏による「パカル王石棺の実物大拓本」が保管されているのである。その拓本の存在を知った経緯は「パカル王からの呼びかけ」にまとめてあるが、今、それを再読して驚いたのは、「旅するイタリア語」が始まったのと同じ昨年10月にその拓本を目にした時、利根山氏の誕生キン(KIN179)も調べていて、それが世田谷美術館での講座開催日と完全にシンクロしていた事だ。

図書館窓口に私が同行していなければ、そしてその瞬間、次の返却者が窓口を訪れていなかったら、私はもちろんLも「美術講座」のチラシを目にする事は無かっただろう(そういう場所に置いてあったのだ)。当然、そんな貴重な機会がある事も知らずに、今日という日を迎えていたに違い無い。こうした「呼ばれてる」状態の時は、予定も必ず空いているもので、G3/3(KIN179)に参加可能だと判明するや、即、(Lが)往復はがきでの申込みを済ませたのだった。

そして昨日、宮下先生による講演「フィレンツェのサンタ・クローチェ教会 大礼拝堂壁画の修復」を聴講してきた訳である。会場入口で配られた絵はがき(嬉しいプレゼント)は、ルネサンス萌芽期の少し前に活躍したアーニョロ・ガッディによるフレスコ画で、会場のプロジェクターにも同じ絵が映し出されていた。思いがけない寄付(2億円!)から始まったという先生の修復プロジェクトのお話は、修復対象となったフレスコ壁画『聖十字架物語』の内容にも劣らぬ面白さで、一気に引き込まれてしまった。
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「前例が無い事はやらない主義」の官僚機構や、視聴者受けばかり狙う番組制作者達との仕事の進め方、怠けがちなイタリア人に期日を守らせる方法、修復先の選び方など、話の内容だけでなくその切り口にも、先生の魅力的な生き様が反映されていて、どうりで私達のアンテナが反応するはずだと深く納得。もちろん、フレスコ画の具体的技法や修復についての諸々(特に文化財保存に対する倫理)も大変勉強になった。金沢大学のサイトにもほぼ同内容のものが掲載されているので、美術史や文化財、そしてフィレンツェに関心のある方は、是非ご覧になる事をおすすめしたい。

1999年のNHKテレビ人間講座に出演されていた頃からのファンの方も参加されていた中、30日前に先生の存在を知ったばかりの私達は、全くの新参者であったが、諸々のシンクロに感じる所があり、終了後ずうずうしくも先生に御礼をお伝えしつつ、記念撮影をお願いした。講演中に「金沢大と宮下の名前を出せば壁画の間近まで入れてもらえる」とおっしゃっていたので、「写真があればもっと話が早いだろう」という魂胆だったが、ご快諾下さったばかりか、学芸大時代は書道科だったというお話も聞けて、ますますご縁を感じてしまった。
宮下先生 
先にサンタクローチェ教会を訪れた時に、『聖十字架物語』の壁画は目にしていて、写真にも収めていたが、まさかその修復に日本人が関わっていたとは思っていなかったし、物語の背景も制作者も知らなかったので、サーっと通り過ぎていた(他にも見どころが沢山あるので)。今回、このタイミングで宮下先生からお話を聞けたことで、俄然興味が湧いたので、5月に再訪する時は、先生との写真を印籠に、じっくりと『聖十字架物語』を見直してみたいと思う。

それにしても、一連の出来事と『13の月の暦』情報とのシンクロ率は異常に高く、シンクロが常態化している私が、久々に戦慄を覚えるレベル。何しろ、世田谷美術館に「パカル王の石棺拓本」が保管されているのを知ったのは、まだ数ヶ月前の話。金沢大学とサンタクローチェ教会、国立フィレンツェ修復研究所との国際共同プロジェクトの合意書が調印されたのは2004年6月(まさに私達が二子玉川に住み始めたタイミング)で、そこから2013年までの9年間(修復作業自体は2011年6月までの6年)、そのプロジェクトを統括されていたのが宮下先生なのだ。

この2004〜2013年の9年間は、『時間の法則の20の銘板』(以下『20の銘板』)の「9人の時間の主の領域」に対応し、この「9人の主」とは、「碑銘の神殿」のパカル王の墓室のレリーフに由来するものでもあるからだ。しかも、「16年間のテレクトノン」というサブタイトルを持つ『20の銘板』は、パカルの石棺レリーフの十字架とリンクした「木の道」というより糸から始まる。一方、サンタクローチェの『聖十字架物語』の主人公は「木」で、新約・旧約両聖書をクロスする、大変興味深い内容である(マリアやキリストは直接的には登場しない)。

確かに「十字架」は、世界で普遍的に見られモチーフの一つではあるが、ここまでの一致度は『20の銘板』日本語版の制作世話人をしていた私には、ちょっとゾッとするものがある。例えば、私が宮下先生の講演を聞く場所は、別に世田谷美術館で無くても良い訳だし、パカルの石棺拓本がその美術館に保管されているのを知るタイミングだって、もっと前でももっと後でも良かったはずだ。しかし、そのタイミングは全て、私にとっての最初のフィレンツェ訪問から次のフィレンツェ訪問までの間(ほぼぴったり260日間の期間)に生じたのだ。

さらに話は昨夜の晩餐にも繋がる。店内にフィレンツェの旗を掲げる程フィレンツェが大好きな五十嵐さんのお店「エテルニータ」が、3月一杯「12周年記念マリアージュコース」をやっていると知ったので、サンタクローチェ教会の講演を聞いた晩は、エテルニータの12周年と、シャンバラ教室の7周年(G3/10で)を祝して、そのコースを頂こうと決めていたのだ。
いわし ワイン 
それで、実際に何時がエテルニータのオープン日だったのかを改めて確認してみると、2005年2月23日(KIN211)と判明。私達が二子玉川に越して来た2004年6月8日(KIN211)からぴったり260日後がオープン日だった事を、12年通って初めて知った。何故その日にしたのかの理由がまた素晴しく、やはり私達が共鳴できる人々というのは、押さえ所が似ているのだなと思ったが、KIN211と言えば、私よりぴったり30日前に生まれ、ハーモニック・コンバージェンス(1987年)の直後に他界したホゼの息子ジョッシュの誕生キン。

そのジョッシュに捧げられた本『時空のサーファー』を通じて、21年前にマヤの暦世界(マヤ暦そのものではない)に入った私にしてみれば、美術講座開催のぴったり30日前、パレンケと繋がる特別なタイミングにその情報を知った事も無関係とは思えなくなる。それに直近のKIN211は2016年7月18日で、その日は、シネスイッチ銀座で『ウフィツィ美術館』という映画を観ているのだ。

冒頭に紹介した『マヤのリズム』は、引っ越し7周年の2011年6月8日(KIN166)に発刊されたもので(ちょうどこの頃サンタクローチェ壁画の修復が完了した模様)、その260日後が皇太子さま(KIN166)の52才、つまり『13の月の暦』でのカレンダーラウンドであり、「エテルニータ」7周年だった訳だ。ここまで書いて来て、やっと全ての繋がりが明らかになった。ちなみに発刊日をその日にしたのは、編集者の天野照久氏の誕生日であり、その260日前が安倍首相の誕生日、その260日後が皇太子さまの誕生日と知っていたからである(本書には安倍昭恵さんから私宛に届いたメールも掲載している)。
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この『マヤのリズム』の「エジプトからの呼びかけ」という節に、9年前の3/3(KIN14)、ツタンカーメンのミイラに出会った事が書いてあるのだが、その日の晩、私達はルクソールからギザに向かって鉄道で移動をしている。そこからさらに52年前の3/3(KIN14)、3000年前の前世記憶を持っていた女性考古学者オンム・セティがカイロからルクソールへと列車で移動した事が、彼女の生涯を描いた作品『転生ー古代エジプトから甦った女考古学者』に書かれているのだ。

この本との出会いも奇跡的であったが、本書によれば彼女の誕生キンは私と同じKIN241であり、発刊日は私達の結婚記念キンであるKIN171である。そして、皇太子さまと「エテルニータ」という店の、今年の「運命の道筋」は、9日前、そのKIN171になったばかりである。

「エテルニータ」はイタリア語で「永遠」の意味。コード番号14の「白い魔法使い」のキーワードは「永遠」であり、『マヤのリズム』にエジプトの話が書いてあるページは154(11・魔法使い)から。「王家の谷」で最初に入ったのがKV14だった事もそこには書いてある。まだまだいくらでもあるが(*)、いい加減、この辺りまでにしておこう…と思ったら、来週の『世界ふしぎ発見』はギザのピラミッドらしいので、ここまでメモしておしまい(笑)。


*こういう体験をもたらし、同時に体験するのが「時のからだ」と私が名付けたで「からだ」であり、それを思いきり活性化させる場が「時のからだ塾」である。

*自分用メモ。『前世への冒険』のアルベルティとデジデリオ。アルベルティ礼拝堂。トリノ五輪と「サムライとトリノ展」

ダヴィンチ・フィレンツェ・チブレオ・モリコーネ

2016年09月10日 23:10

月の月19日(G9/10)KIN5 赤い倍音の蛇(by D)

イタリアの旅については、メルマガでゆっくり7回位に分けて報告して行こうと考えていたのだが、帰国後も発見が続いていて、後から自分のメモを解読する自信もイマイチ持てないので、どうしても記録しておきたい事を、先にまとめておこうと思う。

今回の旅が始まる直前に、私はレオナルド・ダ・ヴィンチがKIN186(4・橋渡し)で生まれ、KIN219(11・嵐)で死んだ事を知った。メルマガ Vol.63の【 ルネサンスの都へ(1) 】に記したように、今回の旅は、ダ・ヴィンチと切っても切れない関係にあり、それは終盤になるほど加速した。

旅程はKIN254(G8/30)〜KIN1(G9/6)。奇妙な動きを見せていた台風10号は、直前まで進路がはっきりせず、私達の出発日を知っていた人々は、飛行機が飛ぶかどうかを心配してくれていた。関東に上陸する可能性も十分あったし、たとえ上陸はしなくとも暴風域が広ければ飛行機は飛ばない。実際、東北、北海道方面の国内線は殆どが欠航していた。
丸虹 
しかし、私達は二子玉川で自宅からリムジンバスに乗るまでの間も傘いらずで(乗車直後に雨)、飛行機も定刻通りに飛び立ってくれた。それどころか、KIN243(G8/19)に誕生し、ウェイブスペル回りに移動しながら観測史上記録的な長寿台風となった10号は、虹を添えて私達を送り出してくれたのだった。
虹道  窓虹 
旅立ちの日に、日本の生態地域(橋渡し)に台風(嵐)が来ただけでも、ダ・ヴィンチとの繋がりを感じるのに、レオナルドという名が、ラテン語 の”leo(ライオン)”とゲルマン語の”harti(堅い)”に由来することを知ると、その台風が「ライオンロック(獅子岩)」という名だった事も偶然とは思えなくなる。

ダ・ヴィンチ空港から始まったローマでも、もちろん沢山のシンクロがあったが、ここではフィレンツェ入りしたKIN256(G9/1)以降の事を書いておきたい。Lが見つけてくれた宿は、フィレンツェのシンボルとも言えるドゥオーモ(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)にほど近いLe Stanze del Duomo。快適かつ便利な宿だったが、中庭に面した部屋から見えるのは、同じ建物の壁に区切られた青空と、大聖堂の頂きに輝く十字架黄金球のみ。
十字架 
フィレンツェカードを手に入れて最初に訪れたのもドゥオーモのクーポラで、まさにその黄金球の真下まで近付いたのだが、その球を制作し、1471年にクーポラ天頂部に据え付けたのが、アンドレア・デル・ヴェロッキオとその弟子レオナルド・ダ・ヴィンチだったと知れば、「部屋からそれしか見えない」事にも特別な意味を感じてしまう。

その日(KIN256)、アルノ川の南側で晩ご飯を済ませた私達は、あまりの満腹状態に、少し歩いて腹ごなしをしてから、別の店でドルチェだけ頂く事にした。アンテナに引っかかったのは『ことりっぷイタリア』P27に出ていたチブレオ・カフェ。そのコーナーに掲載されていたカフェの中で、最も遅い時間帯まで開いていて、「下町にある」というのに引かれたのだが、それが今回の旅を最高に盛り上げてくれる場所になるとは、この時はまだ気付いていなかった。

到着した時点で、22時を回ろうかという時間帯だったのにも関わらず、通りに並べられたテーブルは、大勢の人で賑わっていた。最初、間違えて入ったのがイル・チブレオというリストランテで、カフェとは別にトラットリアもある事を知ったのは、後になってからだった。カフェに入ると、入口近くに居た日本人らしきバリスタが「こんばんは」と日本語で話しかけてくれた。
タルト 
店内の雰囲気も素敵だったが、殆どの人は外で食事を楽しんでいて、大いに盛り上がっていたので、私達も外に席をつくってもらって、ラズベリータルトひとつをシェアしつつカプチーノを頂く事にした。タルトを口にしたLが驚きの表情を見せたのは、その美味しさが想像を越えていたからだったが、私も食べた瞬間「これは並の店じゃない」と悟った。

帰り際、現場でテキパキと指示を出していた若女将みたいな人が「ユースケは最高のバリスタなのよ!」と褒めると、彼はちょっと照れていたが(その言葉をユースケさん自らが訳す事になったので)、このお店には、気持ちの通った何かがあって、舌だけでなく、心も満たされた気分で、まだまだ夜が更けきらないサンタンプロージョの通りを楽しみながら帰路に着いたのだった。

それから3日後のKIN259(G9/4)は、イタリアで過ごす最後の夜だったが、連日、かなりの距離を歩き続け、大量の名芸術作品に触れ続けた結果、流石に疲れ果てて、最後の食事をどこでするのかを考える気力も、殆ど無くなりつつあった。その時、ふと思い出したのがチブレオだった。

そこで、『地球の歩き方 フィレンツェとトスカーナ2015~16』を調べてみると、何と「イル・チブレオ」「トラットリア・チブレオ」「チブレオ・カフェ」が、それぞれ掲載されているではないか!しかも、トラットリアの説明には「レストランとほぼ同じ料理を手頃な料金で楽しめるのが魅力」とあり、カフェの方にも「夜はレストランと同じメニューも味わえる」とあった。

フィレンツェの名店のひとつ」と書かれているレストラン以外は予約不可で、相席の可能性もあるとの事だが、3日前の様子から想像するに、席が全く無いとは思えない。何よりレストランと同じメニューを手頃な料金で味わえるなんて、それだけで嬉しいではないか。ドルチェやカプチーノがあそこまで美味しければ、料理だって美味いに違いない。

そんな訳で、チブレオ行きが決定。宿でひと休みして、21時を回った頃に到着すると、外は変わらず賑わっていたが、カフェ店内には犬を連れたマダム(おそらく地元の人)しか居なかった。カフェの中をもう少しゆっくり見たかったと言っていたLにとっても好都合な状況で、今度は店内をチョイス。日本語メニューは無かったが、バリスタのユースケさんが(本来の仕事ではないのに)丁寧に説明して下さったお陰で、食べてみたいものを自分達に合った量だけ頂く事が出来た。
前菜 ナス 
もちろん、味は全て申し分無し。静かな所で雰囲気を味わいたい人にはリストランテが良いのかもしれないが、地元の人たちと同じノリで気取らず食事をしたいと考える私達にとっては、場所も最高だった。多分、日本人の中でも食べる量が少ない部類に入る私達の注文方法は、結構イレギュラーなスタイルだったのでは無いかと思うが、それをごく当たり前のような感じで受け、適切な形にアレンジしてくれたユースケさんには、この場を借りて改めて感謝したい。

名物のチーズケーキとエスプレッソで締めて、フィレンツェでの「最後の晩餐」を堪能した私は、出来たての剣武天真流の名刺を彼に渡しつつ、スマホで試し斬りの動画をチラッとお見せした。すると、わざわざ店長(オーナーが留守との事でその息子さん)を連れて来てくれたので、流れで記念撮影する事に。それで分かったのは、オーナーのファビオ・ピッキという方は、しょっちゅうテレビやラジオに出るような有名人らしいという事。このお店に感じられた「場」は、きっとそのファビオさんの思想(生き様)によるものなのだろう。
ユースケ 
最高に良い気持ちで通りを歩いていると、何とも魅惑的なメロディーが少し先の広場から聞こえて来る。どこかで聴いたような?と思って耳を傾けつつ近寄ると、何と、私が愛して止まないエンニオ・モリコーネの曲ではないか!!しかも、管楽器の生演奏だ。ダ・ヴィンチの誕生KINがモリコーネと同じKIN186だと知ったのは、「青いスペクトルの嵐」の年に入ってから。
五重奏 
旅の仕上げに、何という洒落た演出なのだろうか!一体、誰がこんなに盛り上がるタイミングで、無限の可能性の中からわざわざモリコーネの曲を選び、こんな形で聞かせてくれているのだろう!!そういう思いと、聞こえてくる感動的な曲調とが重なって、私は思わず泣きそうになってしまった。

チョンピ広場のロッジア(開廊)で演奏をしていたのは、割と若い5人組で、取り囲んでいる聴衆の中から時々人が歩み出ては、投げ銭(そっと置く感じ)をしている。最初に聞こえていた曲の次もモリコーネで、今回、ピサで再会した若き剣武の道友・ニコロも知っていた曲だった(前日私がモリコーネのファンだと言ったら口ずさんでくれた)。

モリコーネ特集なのかと思って、私も投げ銭をしてそのまま聴いていると、3曲目は全く違った曲(誰でも知ってるような曲だったがタイトルは失念)になってしまった。つまり、ちょっとタイミングがズレていたら、モリコーネの曲は聴けなかったのだ。本当に何と言う采配だろうか。あまりに嬉しくてウカレていたのか、珍しく道を間違えて、宿の方角とちょっとズレたレプップリカ(共和国)広場に出てしまった。

しかし、チョンピ広場のロッジア(イルカの彫り物等がある)が、元々はレプップリカ広場にあった魚市場のものだと知ると、導かれたようにも思える。ちなみに、そうした背景や、そもそもロッジアとは何か?を調べたのは、帰国後のKIN2(G9/7)になってからの事。この開廊は、ヴァザーリの作らしいのだが、最初にLが調べた時にヴォロッキオと勘違いして記憶していた事で、私はヴォロッキオについても調べる事になった。

だが、それが更なる驚きの発見へと導くのだから「予期せぬ働き」(「嵐」の出来事を神秘キンの「風」に調べて発見)は面白い。ダ・ヴィンチが弟子入りしたヴォロッキオの工房はどこにあったのか?を調べるうちに、「石田雅芳のフィレンツェ藝術逍遥」というサイトを見つけ、何とプリセッション的にダ・ヴィンチが住んで場所を知る事になったのだ。

そこに記されていた住所「Via de' Martelli7」をグーグルマップに入れ、出て来た地図を見た時の驚きと言ったらなかった。何故なら、それは私達が滞在していたホテルの殆ど真向かいの場所(同じ通り)で、フィレンツェを去るKIN260(G9/5)の朝、急にディスプレイされた本が気になって撮影した「まさにその場所」だったのだ!
本屋 
グーグルマップのストリートビューで角度を少し変えてみれば、そのディスプレイコーナーの真上に、確かに「ダ・ヴィンチはここに住んでいた」というような内容が「1919年5月、400周年忌」と共に刻印されているのを、誰でも観る事が出来る。私達は、まさかそんなプレートがそんな場所にあるとは知らずに、毎日その目の前を通っていたのだった。

結局、ヴェロッキオ工房の方の正確な位置は分からずじまいだったが、チブレオでユースケさんが名刺代わりに(名前とメールアドレスを書き込みつつ)下さったお店のカードを裏返すと、カフェの住所が「Via A. Del Verrochio, 5r」となっている。これって、もしかしてヴェロッキオ通り!?と再びマップに入力して調べると、リストランテとカフェの間にある20〜30m程しかないあの通り(カフェの前のテーブルが置いてあった所)だと判明。

リストランテは「Via A. Del Verrochio, 8r」だが、トラットリアともう一つの系列店(演劇場)は、そこからほんの数mしか離れていないのに入口がその通りに面しているからか「Via de macci」となっている。wikiでヴェロッキオを調べると、「聖アンブロージョ教会地区で生まれた」とあるし(まさにチブレオのあるエリア)、名前もアンドレア・デル・ヴェロッキオだから、カフェの前の通りがヴェロッキオにちなんで付けられたものなのは間違いないだろう(生誕地かどうかは不明)。

ここまで来ると、ヴォロッキオとダ・ヴィンチに遊ばれているような気がして来る。よく見たら『地球の歩き方』にも同じ住所がちゃんと出ていたが、工房の場所を調べようという動機が無かったら、ここまで住所を追求することは無かったかもしれない。もし、この流れの全てを「偶然」で片付けられる人がいたとしたら、それはそれで面白いが、私達とはあまりに感性が違い過ぎて話が通じない気がする。

ダ・ヴィンチの住まいを、そうと知らずに撮影してから1、2時間後、私達はフィレンツェ空港内の書店に居た。カフェにも置いてあったファビオさんの本の英語版があって、写真も内容も素敵だったので、その場で手に入れる事にした。その後、待ち時間にネットでも色々調べてみると、この方は素晴しい芸術家であり、彼が生み出したチブレオは、フィレンツェはもとよりイタリア屈指の名店だという事を知った。
ふぁびお 
初日の夜に、何となく行ってみたお店を通じて、まさかこんな驚きの連続を体験させてもらえるなんて、夢にも思っていなかったが、予想できないこういう流れがあるからこそ、旅も人生も面白いのである。

ところで、通りで最初に聞こえて来たのが何と言う曲だったのか、実は私は知らなかった。『Cinema Paradiso: The Classic Film Music Of Ennio Morricone』というCDで何度も耳にしていたメロディーではあったが、どの映画のサントラなのかも知らなかったのだ。昨夜それを調べて、13曲目の「A Fistful Of Dollars」だと判明。そこで、今度はそのタイトルから映画について調べて、以下の情報を得た。

『A Fistful Of Dollars』は、クリント・イーストウッド(KIN233)が主演し世に知られるきっかけとなった、初のマカロニ・ウェスタンで、邦題は『荒野の用心棒』。しかし、YouTubeで英語タイトルを入れても、なかなかCDと同じ曲が出て来ない。それでやっと分かったのは、最も盛り上がるラストシーン、砂埃の中からイーストウッドが姿を現す時に使われた曲だったという事。どうりで、あのフレーズだけでグッと来るものがある訳だ。

ちょうど、その調べをしていた頃、MXTVで放映されていたジョジョ第四部でも、前半のクライマックス(吉良を追いつめるシーン)を迎えていた。そして、私は悟ったのだった。「ああ、承太郎のイメージは、やはりマカロニ・ウェスタンのイーストウッドから来ているのだ」と。実際、2012年、荒木飛呂彦が52才の時にイーストウッドと対談もして、承太郎の絵を贈った事が『JOJOmenon』に出ているし、「荒野に立つクリント・イーストウッドこそ、空条承太郎のモデルです」と明言もしている。

チブレオを出たあのタイミングであの曲を耳にしていなかったら、この発見もずっと後になっていた事だろう。やはり台風10号に送り出された今回の旅は、荒木先生(KIN10)とも深く関係していたようだ(メルマガに書いた通り、2013年にはフィレンツェで個展も開いている)。

最初は、色々発見したKIN2にブログを書き上げるつもりだったのだが、あまりに追加次項が多くなり、書き足し書き足しするうちに今日になってしまった。しかし、結局カフェ・チブレオの住所、そしてホテルの部屋番号(5)ともシンクロするKIN5になったのだから、これで良かったのかもしれない。

イタリアに滞在していた第6週目(13の月の暦で)の1週間は、ずっとこんな調子だったが、特に骨格となる体験を、記憶が混乱しないうちにここに書けてホッとしている。やれやれだぜ。

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