2016年07月20日 13:37
■宇宙の月24日(G7/20)KIN213 赤い倍音の空歩く者(by D)
7/2(土)に出雲大社で行われた剣武天真流の奉納演武は、お天気にも恵まれて無事終えることが出来たのだが、その前後の時間も素晴しい体験に満ちていたので、感覚が鮮明に残っていて、手帳のメモも解読可能なうちに、少し整理しておこうと思う。
『霊性のアート』等に記している通り、シンクロ率というのは、心身が自然状態にあれば自ずと高まるものである。当然、青木宗家をはじめとする参加メンバーのシンクロ率は高く、普段から様々なシンクロが当たり前のようにある。今回、天真会の吉田晶子事務局長による細かなご準備により、演武を中心に据えた7/1〜7/3の3日間、島根の各所を巡る事が出来た。そこで、今後、島根を訪れる機会のある方の参考にもなればと思い、現地情報を交えつつシンクロ体験をシェアしてみることにした。
7/1(金)は、『13の月の暦』のツォルキンだとKIN194(12・魔法使い)。早朝に家を出て、羽田からJAL277便に乗る。席は33Eで隣は丸山貴彦師範(KIN129=12・月=調波33の始まり)。私が過去に出雲を訪れたのは2002年1月14日(KIN116=12・戦士)の一度きりであり、丸山師範も東日本大震災当日のKIN77(12・地球)の一度きりらしい。今、こうして書いてみると全て「12(水晶)」で共鳴しているのが分かる。
丸山師範が出掛けに何気なく手にして、そのまま持って来たという新体道会報誌『楽天』のバックナンバーvol65(ツォルキンの全調波は65)は、2002年の発刊で、ちょうど私が出雲を訪れた年のものだった。中には当時の審査結果も掲載されていて、私が本科高等科、空手8級(実は未だにそのまま)に合格した記録もあった。
1時間余りで出雲縁結び空港に到着し、そこからレンタカーで市内に向けて移動。先に出雲入りしていた吉田倫子師範&望月ウィウソン師範に市内で合流する予定だったが、途中、青木先生が「ここに寄ってみよう」と促し、荒神谷遺跡へ向かう。古代ハスが一面に咲き乱れる美しい場所で、その奥の山の斜面に、大量の銅剣や銅鐸が発掘された当日の様子を再現した遺跡があった。
★荒神谷遺跡の古代ハス
1984〜1985にかけて出土した銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本は、島根県立古代出雲歴史博物館に保管展示されているが、実際に発掘された場所、つまり1000年以上前に埋められた場所を訪れる事が出来たのは、貴重な体験だった。今見ても、どうしてこんな場所に剣(祭礼用と言われている)を大量に埋めたのか、理由はよく分からないが、当時は特別な意味のある土地だったのだろう。
★荒神谷遺跡の銅剣発掘跡地
その後、倫子&ウィウソン両師範と無事合流し、たたらの故郷・奥出雲へ。途中、雲南市木次町を通ったことで、2年ほど前に偶然手にして知った木次コーヒーの事を思い出す(ちょうど京都亀岡の出雲大神宮を訪れた直後で色々な発見が重なったので、当時の事は「出雲大神宮から杵築大社へー国道9号」という記事にまとめてある)。
気温がグンと上がった頃に「奥出雲たたらと刀剣館」に到着。スタッフの方が詳しく解説をして下さったのだが、青木先生が吉原義人さんの刀を持っている事や、翌日、出雲大社で奉納演武をする事を伝えると、俄然スイッチが入ってさらに熱が入り、是非たたらと関係の深い金屋子神社にも行ってみて下さい、と勧められたりした。
★たたらの実物大模型(地下構造までわかる)
しかし、まずは奥出雲の自然に触れつつ涼も得られそうな場所ということで「鬼の舌震」へ。緑に覆われた渓谷に沿って巨岩、奇岩が多数見られるその場所は、遊歩道も整備されていて、気持ちの良い散策が出来たが、最初の吊り橋はかなり迫力があって、高い所が苦手な人の中には、渡るのを躊躇する方もいるのではないかと思えるほどだった。
★高さ45mの吊り橋
その後、江戸時代にたたら吹きを製鉄を行っていた鉄師頭取の館「絲原記念館」に立ち寄ってから、金屋子神社へ。たたら製鉄と密接に結びついた大切な神社というだけあって、参道脇には出雲各地で採取された鉧(けら:鉄の塊)がいくつも並んでいる。ご祭神の金屋子神は、一言でいえば冶金に関する神様という事になるが、以下wikiからその謂れが書かれている所を引用してみよう。
「高天原から、雨乞いをしている村人に応えて、播磨国志相郡岩鍋にまず天降った。しかし、自ら、元々西方に縁のある神であるとの理由で、白鷺に乗って、西方の出雲国能義郡黒田奥比田(現 金屋子神社の社地)の山林に着き、桂の木にて羽を休めていたところを宮司の祖先である安倍正重が発見し、長田兵部朝日長者が桂の木の横に神殿を建立したという。各地で金屋子神は自ら村下(むらげ:鍛冶の技師長)となり、鍛冶の指導を行ったとされる。」
後日、たたらについて解説が書いてあった『図説 日本刀大全Ⅱ 名刀・拵・刀装具総覧』を調べてみたら、そこにも金屋子神社はしっかりと掲載されていた。また、戦後途絶えたタタラを復活させ、現在唯一操業されている「日刀保たたら」は、「奥出雲たたらと刀剣館」から数キロの場所にあり、現在も日立金属が深く関わっている事を刀剣館で教えてもらったが、本書には、当初、日立製作所が関係した事も記されていた。大学で金属工学を学び、日立製作所で働いていた父は既に他界しているが、こういう背景を知ると多次元的な縁を感じる。
現代の刀工が使う玉鋼(けらの中でも特に品質の良いもの)は、全て、この「日刀保たたら」で生み出されるものだし、既に江戸期には奥出雲はたたらの中心地と言える状況になっていたようなので、新刀時代の刀の大部分も、この地域で生み出された玉鋼から鍛えられた可能性が高い。やはりこの地は古来「日本刀」の故郷なのだ。
ちなみに、出雲大社での演武に使用するのは、播磨守忠國と鑑定された刀で、今は私が青木先生からお預かりしている状態にある。また、忠國は、江戸中期、肥前の国の刀工で、今回、丸山師範が使用する肥前国忠吉の忠吉とは親戚関係に当たる。「播磨守」というのは幕府許認可制の官名みたいなもので、播磨国とは直接関係無いのだが、それでも、播磨国から出雲国へとやってきた金屋子神の話をこのタイミングで知ると、無関係とは思えなくなる。さらに、たたらシンクロは続いて、金屋子神社を参拝した1週間後のKIN201にもこんな体験があった。
実家に届いていた鎌倉高校の同窓会会報誌『うしお』35号を捲ると、何と「鎌高のたたら製鉄」という記事があり、奥出雲についても触れられていたのだ。「奥出雲たたらと刀剣館」で受けた説明が、まだ生き生きとしている内だったので、大変興味深く読み進める事が出来た。実験を繰り返して「赤目砂鉄」「真砂砂鉄」のチタン含有量の違いが製鉄に影響することを明らかにし、鎌倉に見られる「赤目砂鉄」からの製鉄工程を確立しようと試みているようなので、今後の進展が楽しみである。
★金屋子神社で天真五相
さて、話を奥出雲に戻そう。金屋子神社を参拝し、境内で天真五相を行った後、私たちは酒造奥出雲交流館という場所に立ち寄った。そこで、地元の方々と話していた先生が、近所にある亀嵩温泉という温泉を聞き出され、ひと風呂浴びて行こうという流れになった。玉峰山荘という立派な施設には、木彫りの亀の置物もあったりして、「宇宙の月」のトーテムが「亀」だと知っている私には絶妙なシンクロに感じられたが、結局、交流館で話していたおじさん達もお風呂に入って来て再会。当たり前のように色々な事が繋がって行く。
すっかり暗くなった帰路、玉峰山荘から県道に出る川縁にあった「ホタルの里」に寄ると、数は少ないものの時折スーッ、スーッと明るい光が移動するのが見える。地元の方によると最盛期は過ぎているとの事だが、温泉でサッパリした後に見るホタルの光は、何とも涼しげで嬉しい出会いだった。全行程、運転を引き受けて下さった関口師範には感謝の言葉しかないが、今も続けられている東北支援の折には、ほとんど休まずに運転することもあるらしい。
この日の宿泊は出雲市内のビジネスホテルだったが、私は207号室に泊まる事になった。KIN207(12・手)と言えば、マヤ長期暦が完了した2012年冬至の日付であり、その反対のパートナー(130キン離れた関係)は、丸山師範が出雲大社に参拝したという東日本大震災当日のKIN77(12・地球)である。「赤い地球」は古代マヤのカバンに由来し、カバンは「大地」を意味するが、転じて「動き」「生命力」「地震」などのニュアンスも含む。大地のマグマ(火のエネルギー)を彷彿させる「たたら」についての情報をたっぷりダウンロードした日に泊まる部屋として申し分ないナンバー。
この日からぴったり2週間後、真剣を受け取りに(&打ち合わせで)天真会事務所を訪れた帰り、丸山師範と西荻窪から中央線に乗って、私だけ吉祥寺で降りた瞬間、ホームでバッタリ会ったのは『マヤ暦が終わるのは、2011年10月28日だった!』でご一緒した翻訳家の白川さん(KIN77=12・地球)だった。互いに驚きつつ挨拶を交し、そのまま電車に乗り込むと、丸山師範(KIN129=12・月)と共に去って行った。マヤ長期暦の完了と東日本大震災が、どこかの回路(水晶ネットワーク?)を通じて繋がっているのを感じずにはいられなかった。
★奥出雲たたらと刀剣館前のオロチ
スサノオが、出雲国において十拳剣でヤマタノオロチ(八岐大蛇)を切り刻んだ時、尾を切ると十拳剣の刃が欠け、中から大刀が出てきた。それが後に三種の神器のひとつとなる「草薙の剣(天叢雲剣)」である。そうした神話が生まれた地を実際に訪れてみて感じたのは、川の氾濫や、製鉄技術の渡来と発展が、物語に置き換えられて伝わって来たに違い無いという事だった。もちろん、神話には、シャーマニズム的な意味やヴィジョン等も混ざっていると思うが、歴史的な事実が全く関係無いとは流石に思えない。
いずれにしても、「聖なる剣」伝説の地において奉納演武をさせて頂けるというのは、何より得難い機会だと思いつつ、その日は眠りに就いたのだった。
7/2(土)に出雲大社で行われた剣武天真流の奉納演武は、お天気にも恵まれて無事終えることが出来たのだが、その前後の時間も素晴しい体験に満ちていたので、感覚が鮮明に残っていて、手帳のメモも解読可能なうちに、少し整理しておこうと思う。
『霊性のアート』等に記している通り、シンクロ率というのは、心身が自然状態にあれば自ずと高まるものである。当然、青木宗家をはじめとする参加メンバーのシンクロ率は高く、普段から様々なシンクロが当たり前のようにある。今回、天真会の吉田晶子事務局長による細かなご準備により、演武を中心に据えた7/1〜7/3の3日間、島根の各所を巡る事が出来た。そこで、今後、島根を訪れる機会のある方の参考にもなればと思い、現地情報を交えつつシンクロ体験をシェアしてみることにした。
7/1(金)は、『13の月の暦』のツォルキンだとKIN194(12・魔法使い)。早朝に家を出て、羽田からJAL277便に乗る。席は33Eで隣は丸山貴彦師範(KIN129=12・月=調波33の始まり)。私が過去に出雲を訪れたのは2002年1月14日(KIN116=12・戦士)の一度きりであり、丸山師範も東日本大震災当日のKIN77(12・地球)の一度きりらしい。今、こうして書いてみると全て「12(水晶)」で共鳴しているのが分かる。
丸山師範が出掛けに何気なく手にして、そのまま持って来たという新体道会報誌『楽天』のバックナンバーvol65(ツォルキンの全調波は65)は、2002年の発刊で、ちょうど私が出雲を訪れた年のものだった。中には当時の審査結果も掲載されていて、私が本科高等科、空手8級(実は未だにそのまま)に合格した記録もあった。
1時間余りで出雲縁結び空港に到着し、そこからレンタカーで市内に向けて移動。先に出雲入りしていた吉田倫子師範&望月ウィウソン師範に市内で合流する予定だったが、途中、青木先生が「ここに寄ってみよう」と促し、荒神谷遺跡へ向かう。古代ハスが一面に咲き乱れる美しい場所で、その奥の山の斜面に、大量の銅剣や銅鐸が発掘された当日の様子を再現した遺跡があった。
★荒神谷遺跡の古代ハス
1984〜1985にかけて出土した銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本は、島根県立古代出雲歴史博物館に保管展示されているが、実際に発掘された場所、つまり1000年以上前に埋められた場所を訪れる事が出来たのは、貴重な体験だった。今見ても、どうしてこんな場所に剣(祭礼用と言われている)を大量に埋めたのか、理由はよく分からないが、当時は特別な意味のある土地だったのだろう。
★荒神谷遺跡の銅剣発掘跡地
その後、倫子&ウィウソン両師範と無事合流し、たたらの故郷・奥出雲へ。途中、雲南市木次町を通ったことで、2年ほど前に偶然手にして知った木次コーヒーの事を思い出す(ちょうど京都亀岡の出雲大神宮を訪れた直後で色々な発見が重なったので、当時の事は「出雲大神宮から杵築大社へー国道9号」という記事にまとめてある)。
気温がグンと上がった頃に「奥出雲たたらと刀剣館」に到着。スタッフの方が詳しく解説をして下さったのだが、青木先生が吉原義人さんの刀を持っている事や、翌日、出雲大社で奉納演武をする事を伝えると、俄然スイッチが入ってさらに熱が入り、是非たたらと関係の深い金屋子神社にも行ってみて下さい、と勧められたりした。
★たたらの実物大模型(地下構造までわかる)
しかし、まずは奥出雲の自然に触れつつ涼も得られそうな場所ということで「鬼の舌震」へ。緑に覆われた渓谷に沿って巨岩、奇岩が多数見られるその場所は、遊歩道も整備されていて、気持ちの良い散策が出来たが、最初の吊り橋はかなり迫力があって、高い所が苦手な人の中には、渡るのを躊躇する方もいるのではないかと思えるほどだった。
★高さ45mの吊り橋
その後、江戸時代にたたら吹きを製鉄を行っていた鉄師頭取の館「絲原記念館」に立ち寄ってから、金屋子神社へ。たたら製鉄と密接に結びついた大切な神社というだけあって、参道脇には出雲各地で採取された鉧(けら:鉄の塊)がいくつも並んでいる。ご祭神の金屋子神は、一言でいえば冶金に関する神様という事になるが、以下wikiからその謂れが書かれている所を引用してみよう。
「高天原から、雨乞いをしている村人に応えて、播磨国志相郡岩鍋にまず天降った。しかし、自ら、元々西方に縁のある神であるとの理由で、白鷺に乗って、西方の出雲国能義郡黒田奥比田(現 金屋子神社の社地)の山林に着き、桂の木にて羽を休めていたところを宮司の祖先である安倍正重が発見し、長田兵部朝日長者が桂の木の横に神殿を建立したという。各地で金屋子神は自ら村下(むらげ:鍛冶の技師長)となり、鍛冶の指導を行ったとされる。」
後日、たたらについて解説が書いてあった『図説 日本刀大全Ⅱ 名刀・拵・刀装具総覧』を調べてみたら、そこにも金屋子神社はしっかりと掲載されていた。また、戦後途絶えたタタラを復活させ、現在唯一操業されている「日刀保たたら」は、「奥出雲たたらと刀剣館」から数キロの場所にあり、現在も日立金属が深く関わっている事を刀剣館で教えてもらったが、本書には、当初、日立製作所が関係した事も記されていた。大学で金属工学を学び、日立製作所で働いていた父は既に他界しているが、こういう背景を知ると多次元的な縁を感じる。
現代の刀工が使う玉鋼(けらの中でも特に品質の良いもの)は、全て、この「日刀保たたら」で生み出されるものだし、既に江戸期には奥出雲はたたらの中心地と言える状況になっていたようなので、新刀時代の刀の大部分も、この地域で生み出された玉鋼から鍛えられた可能性が高い。やはりこの地は古来「日本刀」の故郷なのだ。
ちなみに、出雲大社での演武に使用するのは、播磨守忠國と鑑定された刀で、今は私が青木先生からお預かりしている状態にある。また、忠國は、江戸中期、肥前の国の刀工で、今回、丸山師範が使用する肥前国忠吉の忠吉とは親戚関係に当たる。「播磨守」というのは幕府許認可制の官名みたいなもので、播磨国とは直接関係無いのだが、それでも、播磨国から出雲国へとやってきた金屋子神の話をこのタイミングで知ると、無関係とは思えなくなる。さらに、たたらシンクロは続いて、金屋子神社を参拝した1週間後のKIN201にもこんな体験があった。
実家に届いていた鎌倉高校の同窓会会報誌『うしお』35号を捲ると、何と「鎌高のたたら製鉄」という記事があり、奥出雲についても触れられていたのだ。「奥出雲たたらと刀剣館」で受けた説明が、まだ生き生きとしている内だったので、大変興味深く読み進める事が出来た。実験を繰り返して「赤目砂鉄」「真砂砂鉄」のチタン含有量の違いが製鉄に影響することを明らかにし、鎌倉に見られる「赤目砂鉄」からの製鉄工程を確立しようと試みているようなので、今後の進展が楽しみである。
★金屋子神社で天真五相
さて、話を奥出雲に戻そう。金屋子神社を参拝し、境内で天真五相を行った後、私たちは酒造奥出雲交流館という場所に立ち寄った。そこで、地元の方々と話していた先生が、近所にある亀嵩温泉という温泉を聞き出され、ひと風呂浴びて行こうという流れになった。玉峰山荘という立派な施設には、木彫りの亀の置物もあったりして、「宇宙の月」のトーテムが「亀」だと知っている私には絶妙なシンクロに感じられたが、結局、交流館で話していたおじさん達もお風呂に入って来て再会。当たり前のように色々な事が繋がって行く。
すっかり暗くなった帰路、玉峰山荘から県道に出る川縁にあった「ホタルの里」に寄ると、数は少ないものの時折スーッ、スーッと明るい光が移動するのが見える。地元の方によると最盛期は過ぎているとの事だが、温泉でサッパリした後に見るホタルの光は、何とも涼しげで嬉しい出会いだった。全行程、運転を引き受けて下さった関口師範には感謝の言葉しかないが、今も続けられている東北支援の折には、ほとんど休まずに運転することもあるらしい。
この日の宿泊は出雲市内のビジネスホテルだったが、私は207号室に泊まる事になった。KIN207(12・手)と言えば、マヤ長期暦が完了した2012年冬至の日付であり、その反対のパートナー(130キン離れた関係)は、丸山師範が出雲大社に参拝したという東日本大震災当日のKIN77(12・地球)である。「赤い地球」は古代マヤのカバンに由来し、カバンは「大地」を意味するが、転じて「動き」「生命力」「地震」などのニュアンスも含む。大地のマグマ(火のエネルギー)を彷彿させる「たたら」についての情報をたっぷりダウンロードした日に泊まる部屋として申し分ないナンバー。
この日からぴったり2週間後、真剣を受け取りに(&打ち合わせで)天真会事務所を訪れた帰り、丸山師範と西荻窪から中央線に乗って、私だけ吉祥寺で降りた瞬間、ホームでバッタリ会ったのは『マヤ暦が終わるのは、2011年10月28日だった!』でご一緒した翻訳家の白川さん(KIN77=12・地球)だった。互いに驚きつつ挨拶を交し、そのまま電車に乗り込むと、丸山師範(KIN129=12・月)と共に去って行った。マヤ長期暦の完了と東日本大震災が、どこかの回路(水晶ネットワーク?)を通じて繋がっているのを感じずにはいられなかった。
★奥出雲たたらと刀剣館前のオロチ
スサノオが、出雲国において十拳剣でヤマタノオロチ(八岐大蛇)を切り刻んだ時、尾を切ると十拳剣の刃が欠け、中から大刀が出てきた。それが後に三種の神器のひとつとなる「草薙の剣(天叢雲剣)」である。そうした神話が生まれた地を実際に訪れてみて感じたのは、川の氾濫や、製鉄技術の渡来と発展が、物語に置き換えられて伝わって来たに違い無いという事だった。もちろん、神話には、シャーマニズム的な意味やヴィジョン等も混ざっていると思うが、歴史的な事実が全く関係無いとは流石に思えない。
いずれにしても、「聖なる剣」伝説の地において奉納演武をさせて頂けるというのは、何より得難い機会だと思いつつ、その日は眠りに就いたのだった。
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