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飛鳥(アスカ)から日向(ヒムカ)へ

2015年07月25日 01:57

宇宙の月28日(G7/24)KIN112 黄色い銀河の人(by D)

剣武天真流の奉納演武ツアーは、本来7/17(KN105)から始まる予定だった。しかし、台風11号の接近で宮崎へのフライトが危ぶまれた為、出発を遅らせる事が決まり、現地で予定されていたミーティングも、西荻窪の天真会事務所で行われる事になった。

事務所のベランダにある月下美人のつぼみを見て、青木先生が「今晩か明日位には咲きそうだね〜」とおっしゃっていたのがどこかに残っていたのか、ひと通りの話し合いを終えた辺りで、「あ、今つぼみが開いた気がする」という感覚がやって来た。窓際にいた丸山師範に確認してもらうと、確かに開き始めているという。
月下美人 
そこで、植木鉢を部屋のテーブルの上に置いて、皆でしばし観賞する事になった。1時間程の間にみるみる開花して行く様は、美と驚きに満ちていて、飽きることが無かった。しかも、この花は一夜限りで散ってしまうというのだから、ツアーメンバー全員が揃っているタイミングに開花したのは奇跡的だ。

この日は、宮崎が梅雨明けしたというニュースも入って来て、幸先の良い徴に満ちていたが、それは帰宅してからも続いた。郵便ポストに届いていたのは、何と橿原神宮(神武天皇が御祭神)からの案内だった。大分前に何かで寄付をしてから、年に数回案内が届くようになったのだが、今回のは内容もタイミングも凄かった。
橿原 
何しろLは、まさにこの日(7/17)の朝、橿原神宮に参拝しており、私は翌日から日向国へと向かうスケジュール。私とほぼ同じ時間帯に奈良から戻ったLに、久米寺や天武持統陵の話(「金星・空海・キトラ古墳」を参照)なんかを聞きながらこの案内をめくると、以下のような文章が目に入って来た。

”御祭神 神武天皇様は日向国高千穂宮をお発ちになり、熊野灘を経て大和橿原の地にはじめて都を定められました”

普段だったら何と言うことの無い一文なのだが、台風11号の影響で和歌山県南部に大雨が降り、熊野川が氾濫した事を知った青木先生が、事務所から熊野在住の方に電話をかけて安否を確かめられていたので、私は、このタイミングでこの文章を目にした事に驚かざるを得なかったのだ。だが、今、再確認していて気付いた驚きがもう1つあるので、同じく冊子より引用してみよう。

”来る平成二十八年、御祭神 神武天皇様 崩御二千六百年の式年を迎えることとなり、同年四月三日に「神武天皇ニ千六百年大祭」を厳粛且つ賑々しく御斉行申し上げます”

つまり、この冊子の趣旨は、来年4/3の大祭のお知らせだった訳だが、2016年4月3日を調べるてみるとKIN105で、何と冊子が届いた7/17と同じ「赤い磁気の蛇」だったのだ!月下美人もこの冊子の件も、予定通りに7/17に宮崎に飛んでいたら直接は見られなかったものだと思うと、台風11号の動きにも、何か大いなる働きを感じてしまう。

ところで、紀元ニ千六百年と言えば1940年に盛大に祝われたはず…と思って調べると、今回のは崩御2600年で、1940年の時は即位2600年だった事が分かった。私の両親は共にその紀元2600年の生まれで、新婚旅行も熊野那智〜橿原神宮だったと聞かされて来たから、このシンクロには個人的に強く響くものがある。

ちなみに、Lが飛鳥で入手して来た『新改訂・キトラ古墳と壁画』は平成18年3月27日の発行で、気になってその発行日を調べてみるとKIN88だった。四国八十八ヶ所からの流れ、国際天文学連合が定めた全天88星座とも見事にシンクロしていたが、同時にそれは父の誕生キンでもあるのだ。

そんな流れで、前日から大いに盛り上がっての宮崎行き。翌7/18(KIN106)に羽田から乗ったのはANA603便28。台風11号が経過しての603と来ると、どうしてもパレンケ11代王パカルの事を意識せずにはいられない。ちょうどマヤでパカル王が活躍していた頃、日本では天武・持統天皇がこの国の基礎を創っていた。おそらく、神武天皇が神話の中に位置づけられたのもその頃だろう。

宮崎空港からレンタカーで日向の大御神社に向かう。前日、梅雨明けしたと報じられた割には曇り空で、東京よりも涼しい。大御神社の御祭神は天照大神なので、レンタカーのナンバー「11-38」も、「猿」「鏡」に見えてしまう(紋章コード番号変換で)。

神社の駐車場に付くと、今回の奉納演武の諸々をご手配下さった刀匠の松葉さんが迎えに来て下さっていた。そして門をくぐると、嬉しい事に、6月一杯二子玉川ラサで「時の楽譜」展を共同開催し、TIMESCOREを共同制作したMiyokoさんが、延岡からお友達と駆けつけて下さっていた。ちなみに、Miyokoさんは7月の誕生日を迎えてから「青い宇宙の猿」の道筋を歩まれている。

本殿で正式参拝をしてから、海に面した広い場所で奉納演武をさせて頂いた。お天気が危ぶまれたものの神社に到着した頃からは青空が広がって、とても気持ちの良い風が吹き続けていた。演武終了後、新名宮司が境内の「さざれ石」や「龍の玉」「龍宮」などを、発見時のエピソードを交えながら案内して下さり、大変充実した時間を過ごさせて頂いた。ここに改めて感謝申し上げる次第である。

もしかしたら、高千穂から海に出られた神武天皇は、この辺りから東に向かったのかもしれない、とそんなイメージが浮かぶ、何とも清冽で気持ちの良い神社だった。その後は、松葉刀匠のお宅に伺って、試し斬り大会。松葉先生の指導を受けつつ、奥様やお弟子さんにもお世話になって、大いに学ばせて頂いた。ちょうど、試し斬りが終わった頃に雨がポツポツ降り始め、その後は結構な降りに。

翌7/19(KIN107)も、お天気はグズついていて、雨雲レーダーの予想では、午前中一杯、鵜戸神宮の辺りは雨雲がかかっているような状態だったが、これも現地に付くと晴れて来て、正式参拝を終え、演武をする海辺の広場に出ると、日の光がパーっと差し込んで来た。

松葉さん曰く「青木先生の神通力を信じてますから、雨は全く心配してなかったですよ」との事。確かに、私も晴れ男ではあるが、先生の晴れ男ぶりには敵わないかもしれない。実は10年以上前に、私はこの鵜戸神宮を訪れていて、今回演武をさせて頂いた辺りから亀石に向かって「運玉」というのを投げている。

その時、確か2回分チャレンジして最後のひとつが亀石に入ったと記憶しているが、今回、こういうタイミング(トーテムが亀の宇宙の月23日、KIN107)に鵜戸神宮で奉納演武が出来たのも、もしかしたら、その時の願いがある形で成就したのかもしれない。何しろ10年前には考えられなかった青木先生との組手まで、その場でさせて頂けたのだ。しかも、「念流」や「陰流」の開祖が、剣の奥義を悟ったとされる場所でだ。

演武終了後、地元メディアの取材を受けられていた青木先生の横で、今回の演武を佐賀から見に来られた矢山先生と少しばかりお話をさせて頂いた。20年以上前に『気の人間学』という本を読んで注目していた先生と、このような場でお会い出来たのも、青木先生、松葉先生のお陰であるが、お話しているうちに空海の研究をかなりされていた事を思い出して伺ってみた。
矢山先生 ☆矢山先生と

すると『超訳 空海の人間学』という本を、割と最近出版された事を教えて下さった。「金星・空海・キトラ古墳」に書いた通り、ここ最近の流れには、空海がずっと絡んでいる。帰宅後、改めて調べてみると、矢山先生の御著書は、何と剣武天真流のDVDも出して下さっているクエストから発売されていた。何と言うご縁だろうか。

鵜戸神宮では、その後、社務所で松葉刀匠が復元、奉納された「鵜ノ丸太刀」を見せて頂くなど、こちらも大変長い時間に渡って本部宮司はじめ神社の方々にお世話になった。宮崎日日新聞に奉納演武の案内や報告が細かに掲載されたのも、松葉刀匠と本部宮司のお陰である事は言うまでもない。この場を借りて深く御礼申し上げたい。

もっとも、これも青木宗家と吉田事務局長が、松葉さんと時間をかけて交流を深めて来られたというベースがあっての事。全くもってありがたいご縁、そして先生方に、ただただ感謝するのみである。

ちなみに、鵜戸神宮の御祭神は鸕鷀草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)で、神武天皇の父に当たる方である。そして鸕鷀草葺不合尊の父が彦火火出見尊(ヒコホホデノミコト)こと山幸彦、母が豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)という流れになっているのだが、豊玉姫命は、出産の際に八尋和邇(やひろわに)の姿になっているのを山幸彦に見られたため海に帰って行ったという。

興味深い事に、太平洋を挟んだメキシコのオアハカにも、「ワニの花嫁」という伝説がある。といっても、これもごく最近になって知った話で、きっかけは、「時の楽譜」展最初の来場者となったOさんが、岡本太郎美術館で竹田鎭三郎展が行われていることを教えて下さった事にある。

その時の経緯は「サカダワ満月のパカル王」にまとめてあるが、6/23(KIN81)に展示会場へ行き、『ワニのお嫁さんとハチドリのお嫁さん』という絵本を目にした。実はその日は、ホゼ(KIN11)がウォールストリート・ジャーナルの一面を飾った日からぴったり28年目に当たる日だったので、私は往路のフライトが603便で28という席だったのにも特別なものを感じていたのだった(帰りはSNA56便17で11番ゲート)。

その絵本は、オアハカ先住民の伝統行事「人間の村人が、生きたワニと結婚式をあげるお祭り」にヒントを得て、清水たま子さんが創作され、竹田鎭三郎さんが絵を描かれた作品だったが、そういう話に意識を合わせていたからか、7/8(KIN96)には「花嫁はワニ!?豊漁祈願の伝統儀式 メキシコ」というネットニュースを偶然目にする事にもなった。この記事が公開されたのが13:20というのも驚きだが、私は日本神話との類似性に改めて心ひかれる思いがした。

古事記や日本書紀での和邇(ワニ)は、サメの事だとも言われているが、因幡の白兎と同型の神話が東南アジアなどにもあり、そこではサメではない所謂ワニが登場するので、和邇ももしかしたら普通のワニを指しているのかもしれない。

鵜戸神宮の海岸側の参道は、私達が訪れる10日程前まで崖崩れの影響で通行止めになっていたようだし、演武を終えて車で移動している途中からは、かなりの土砂降りにもなったりしたので、今振り返っても、無事神宮にたどり着けた事や、演武の時に晴れていた事が、特別にありがたいことのように思える。「世界の平和を祈り、この国を創って来た人々に感謝する」という動機に、天が呼応してくれたのだろうか。

大御神社、鵜戸神宮での演武の様子は、天真会のFBアルバムとユーチューブの動画で公開されているので、それぞれのリンクを辿って頂ければと思う。

尚、10月には大阪で、本部大阪道場開設を記念する体験ワークショップが予定されており、宗家をはじめ、今回の演武メンバー一同が訪問する予定なので、実際に剣武をやってみたい、体験してみたいという方は、早めに申込みをされる事をおすすめしたい(リンク先のお知らせ欄参照)。日本から世界に発信できる身体文化、身体芸術を是非、その心身で味わって頂ければと思う。
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金星・空海・キトラ古墳

2015年07月22日 08:08

■宇宙の月26日(G7/22)KIN110 白い律動の犬(by D)

金星が最も強く輝いていた7/10(KIN98)、四国の善通寺という所からセッションにいらした方がいた。遠方であるだけでなく、珍しい住所だと思って、その10日程前に申込みがあった時にその町の由来を調べてみた。すると、空海生誕の地とされ、町の名も空海の父の法名に由来する事が分かった。

ちょうどその頃行われていた「時の楽譜」展の最終日がKIN88だった事もあって、四国88ヶ所との繋がりも感じ、空海の事をまた少し調べてみようという気になった。KIN88の父を持ち、KIN11の銀河の父(ホゼ)を持つ私にとって、空海がその父に捧げたお寺のある町に国道11号が通っていると知った事もその気持ちを後押しした(ちなみに善通寺は陸軍第11師団が置かれていた地でもある)。

そこで、Lがかつて天真書法塾発表会で第1回天真大賞を受賞した記念にと、友人の安元さんからプレゼントされた『若き空海の実像』(安元さんが編集された)を引っ張り出して来た。著者の飯島氏は専門の書の切り口から大変興味深い指摘をされていて、思わず引き込まれ、すぐに氏の『空海入唐』も注文して入手。

そういう流れがあっての7/10。この日、郵便局で最初に目にした待ち番号806は、空海が唐から戻って来た年だったし、久しぶりに雲の無い夕暮れ時を迎えた西の空には、最大光度で輝く金星と、横に並ぶ木星まで目にする事が出来て、見えない領域から空海が迫って来ているような感じがしてならなかった。

その5日後の7/15(KIN103)、シャンバラ教室でOさんが『日本とアジアの未来を考える/対話・総括』という奈良県が出した分厚い報告書を貸して下さった。最初は「量も多いし後でゆっくり読ませてもらおう」なんて思っていたのだが、Oさんの「P333に橿原考古学研究所所長の菅谷先生の記事がありますよ」の言葉に誘われて、パラパラとめくってみると、これが面白い!

予定していた作業そっちのけで、P333からの《「ユーラシアスコープ」で東アジアの古代史を見つめ直す》と、続くP369からの《古代における日本と西アジアのつながりは不思議》を、教室の片隅で一気に読んでしまった。【持統天皇と「八」の秘密】に書いた通り、菅谷先生の事を知ったのは、今年の2月末の事だったが、講演時の印象に通じる気合いのようなものが、文章からも感じられて思わず引き込まれてしまうのだ。

その夜、PCを落とす直前にヤフーのトップページで【<キトラ古墳天文図は紀元前後中国で観測された星の可能性】というタイトルのニュースが目に飛び込んで来た。私は驚愕した。何故なら、数時間前に読んでいた報告書のP362に、その「キトラ古墳内壁画『天文図』」があったからだ!(ちなみにこのブログは『13の月の暦』で元旦から362日目に当たる日にUPする事になった)

そこでは、キトラ星宿図は北緯38度の天空であり、埋葬されたのが百済の王だという説が紹介されいた(菅谷先生とは別な先生の説)のだが、私はどうもピンと来なかったのだ。だからこそ、数時間後に見たニュースの中で「キトラの天文図が紀元前1世紀半ば頃の星の配置で、円や星の位置関係などから紀元後4世紀に北緯約34度地点(洛陽や長安があった辺り)で観測したものらしい」という報告されているのを見て、尚更驚いたのだ。

それにしても、600ページもある報告書とは別に1000ページの資料まで一緒に持って来て下さったOさんのタイミングの良さには驚かされる。しかし、もっと驚くのは、その翌朝からLが仕事の関係でキトラにほど近い場所に行く予定が入っていたという事実だ。

13月20日(G7/16)の朝、Lは奈良に向けて出発した。その後、私は精神科医の名越さんのツイート”今週の週刊新潮、後ろのグラビア「私の奈良」見てね。弘法大師が若かりし頃、このお寺の塔内で大日経を発見し驚愕。空海が空海になった瞬間” というのを目にして、コンビニで立ち読みしてみる事にした。何しろ、今、私には空海の風が吹いて来ているのだ。

が、その記事は私をもっと別なところで驚愕させた。何と空海が若かりし頃、大日経を発見したお寺というのは、橿原神宮前の久米寺という寺だったのだ!Lがその日宿泊する予定の宿は、その駅前の橿原ロイヤルホテル!住所は橿原市久米町!何と言うピンポイントなシンクロだろうか!!流石に今年最後の「魔術の亀の日」にして新月の13月20日(KIN104)。

しかも、続けて甲野善紀さんのツイートを流し読みしていたら、前日の夜、つまり私がキトラシンクロで興奮していた頃、名越さん共々二子玉川に来ていた事が判明(整体協会に定期的に来ているのは前から知っていたが)。そこで、私はLに、名越さんのツイートの事と、週間新潮を今日どこかで見た方がいいという事をメールで伝えた。

ちょうどその頃、Lは近鉄に乗り換えていて、空海ゆかりの東寺が見える付近を走っている、という返信があった。台風11号直撃が予想されていたのにも関わらず、雨に降られる事もなく、天武・持統陵を参拝し、久米寺にも行く事が出来たというのだから、この一連の流れには、強い必然性を感じてしまう。

本来なら奉納演武に向けて宮崎に出発しているはずだった翌7/17(KIN105)。台風を避けてフライトを一日ズラした関係で、私は天真会事務所で打ち合わせをしてから帰宅したのだが、おかげで、月下美人が咲く瞬間を初めて直に見られたし(事務所で)、ほぼ同じ時間帯に奈良から戻ったLに、久米寺橿原神宮の話を聞く事も出来た。
玄武 ★『新改訂・キトラと壁画』より。玄武は「宇宙の月」のトーテムアニマルである「亀」と、現在の「ウェイブスペル」の主である「蛇」が絡まったデザイン。

キトラは現在、中が見られるようにはなっていないし、今回の用事は全く別な事だったから、わざわざキトラを訪れることはしなかったとの事だったが、飛鳥駅前の総合案内所で『新改訂・キトラ古墳と壁画』(※)という冊子を手に入れて来てくれた。星宿図についてもかなり詳しく書かれていて、何故、百済王説が出るのかも多少理解できた。

が、その冊子はあくまで壁画に関する資料で、誰が埋葬されていたのかについては触れられていなかった。ちなみに、Wikiによれば、キトラ古墳へ埋葬されていた人物の候補は、天武天皇の皇子、もしくは側近の高官の可能性が高いと見られ、阿部御主人、弓削皇子、高市皇子などが挙げられているようである。里中さんの『天上の虹』を読んでからグッと身近になった世界だ。

実は、ここから、宮崎へと繋がるシンクロが色々とあるのだが、それはまた別にまとめることとして、最後に、その冊子で知ったキトラ古墳の住所についてだけ、書き留めておきたいと思う。冊子冒頭の「はじめに」は「キトラ古墳は奈良県高市群明日香村阿部山字ウエヤマ136番地の1に所在する」という一文で始まっている。

実は、キトラシンクロの発端となったシャンバラ教室のOさんは、KIN136(6・戦士)が誕生KINなのだ!しかもその日付は、私達が初めてダライ・ラマ法王からカーラチャクラ灌頂を受けたKINでもある(グラーツで)。古代日本の天文図に関する情報を、驚くべきシンクロを通じて受け取れたのには、この136という数字が強く関与しているのかもしれない。

そしてこれは、今読み進めているユングとパウリによる『自然現象と心の構造』とも関係しているように思える。なぜなら、パウリはこの本の中で、ケプラーの宇宙論について詳しく言及しており、そのケプラーがグラーツに滞在していた事も記しているからだ。

しかし、その話も詳しく分け入ると、また別な流れに入ってしまうので、今は、このキトラ天文図のシンクロが、空海や金星と連動してやって来たことにだけ再度注目して、本稿を締めることにしたい。

(※)『新改訂・キトラ古墳と壁画』は平成18年3月27日の発行。気になってその発行日を調べてみるとKIN88だった。四国八十八ヶ所からの流れ、国際天文学連合が定めた全天88星座と見事にシンクロしていた。

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