滋賀(志賀)ー 高島 ー 安曇の活性化

2017年05月19日 03:06

スペクトルの月17日(G5/18)KIN255 青い銀河の鷲

中学時代の同級生で、部活も同じで、誕生日(磁気の月18日&KIN241)まで全く同じ人物が居る。その平井俊旭君(以下トシ:中学時代の呼び名)からFBを通じて連絡があったのはG4/15(KIN222)。数年前に学年全体の同窓会があった時に顔を合わせて以来なので、かれこれ5年ぶり位だろうか。確か当時は、スープストックトーキョーの仕事をしていたはずだが、メッセージには「今は滋賀県の高島市っていうところに住んでいて、行政の仕事を受けて地域の活性化のような仕事をしてます」とあった。

それで改めてプロフィールを見ると、「雨上株式會社」社長となっている。いつの間に!と思ったが、おそらく今の仕事と関係があるのだろう。連絡のきっかけは水に関する事だったようで、しばしメッセージのやり取りをして、「まあ、近いうちに会おう」という流れになった。ところで、高島市ってどの辺りなのだろう?と気になって調べると、琵琶湖の西岸北寄りのかなり広いエリアである事が分かった。地図を拡大してみて驚いたのは、市の中心部に流れている川の名が安曇川だった事。

今年の春分(KIN196)とその翌日の2日間、安曇族発祥の地とも言える志賀島で過ごして来たばかりのタイミングに、それも、「スピリットを伝える」13日間(風のウェイブスペル)の初日に、水をきっかけに連絡が来るとは面白過ぎる。しかも、この日は剣武の奉納演武をさせて頂いた志賀海神社で「山誉種蒔漁猟祭」が行われていた日。志賀島の小崎亜久理さん(KIN219)が「時のからだ塾」MLで知らせて下さったのだが、このお祭りの中で、古来「君が代」が神楽歌として歌われ続けて来たのである。

更なる驚きは、お祭りが行われるG4/15(惑星の月12日)のサイ時間が、常に権禰宜の平澤憲子さん(KIN193)の誕生KINに対応するという事。加えて、G4/15は「13の月の暦に替える平和の運動」に強い影響を与えた「レーリヒ条約」(文化財保全を目的とした初期の国際条約)が調印された日でもあるのだ!

翌日、トシから「FBで君が代の書を見たけど、あれは最高だね!スゲー!」とコメントがあった。まさにその書こそ、志賀海神社に蘭禅が奉納した作品なのだが、その経緯については【「君が代」発祥の地・志賀島へ】にまとめてあるので、そちらを参照いただければと思う。

志賀海神社3 ★蘭禅による奉納書「君が代」

その9日後のKIN231(G4/24)は、蘭禅の79回目の銀河の誕生日とレオナルド・ダ・ヴィンチの565回目の誕生日、さらにレーリヒのKIN204(サイ時間)が重なるスペシャルな日で、私達は所用で自由が丘に居た。途中、メガネドラッグで眼鏡を洗わせてもらっていると、「おばら!」と見知らぬ(ように見えた)男性から声をかけられた。何と、中学の同級生K君だった!彼とも前の同窓会以来だから、やはり5年ぶり位。よくもこんな所で私を見つけられたものだ。

タイミング的にも面白かったので誕生日を確認しておくと、3/19(KIN200)との事。その日だったかその前日だったかにプリンスの319という曲を久しぶりに聞いていただけに、これまたビックリだったが、今年の3/19はKIN195で、ちょうど出雲大社(杵築東195)で剣武の奉納演武をさせて頂いた日(KIN195)からぴったり260日後という関係になっていた。そして、私達はその日、ANA241便で福岡入りしているのである。

この流れの発端は、2年前の誕生日(2015.8.12)にあると私は感じている。何故なら、私はその日からKIN131(1・猿)の道筋に入り、その4日後に志賀島(&安曇族)と繋がるきっかけとなった人物・亜久理さんと出会っているからである。誕生日当日の事をまとめた「鎌倉みちのく魔術紀行」シリーズの第6話「四重虹」には、以下のような記述もある。

”『ドリームスペル(13の月の暦)』旅程盤に由来を持つ反時計回り(ネジを緩める方向)のウェイブスペルの動きは、「偽りの時間」(12か月の暦)が生じたとされる約5125年前から現在までの時間を、解放(浄化)しながら再構築するプロセスを示してもいる。今回の日帰り紀行は、それを個人史に応用したもので、江島神社鶴岡八幡宮→横須賀線上り(帰路)という地理的な反時計回りと、高校→中学→小学校という時間的逆行とをシンクロさせ、その時々に混入した(無自覚な)12:60的影響を解放するという試みでもあった。”

亜久理さんと出会ったのはハーモニック・コンバージェンス28周年当日のG8/16(KIN135)。その日行った暦クラスのメモには、「福岡から一番乗りでやって来られて日帰り」「例題に立候補:KIN219、月の月18日(G9/9)」とある。上記「四重虹」に詳しく書いてあるが、自分の誕生日から28(4×7)日後の亜久理さんの誕生日(G9/9)に、4重の虹(7色)が出たのには、流石に驚いた。

四重虹1 ★玉川高島屋のデッキより

その後、2016年5月に石川県羽咋郡志賀町(後に志賀島との関係を知る)で剣武の合宿があり、7月に出雲大社で奉納演武。この時、津和野方面も巡った事は【石州和紙を通じて剣武創始の時空に出会う】に記した通りである。結局、トシとはG5/9(KIN246)に自由が丘で会う事になったのだが、その5日前のKIN241(G5/4)に彼が居たのは、何と津和野であった。そして、互いの近況を話す中で、私が初めて知ったのは以下のような事だった。

・トシが現在住んでいるのは高島市安曇川(あどがわ)という所であること
・鎌倉-高島-出雲は、一直線上にあること
ホツマツタエの完全版は高島市で発見されていること
・第26代継体天皇の生誕地は現在の高島市であること
雨上株式會社という社名は水の循環になぞらえてあらゆる循環を象徴していること

最後の点は、『霊性のアート』で提示した「球状精神宇宙モデル」のイメージとも重なるところがあり、生年月日が同じで、同じタイミングに同じ学校で少年期を過ごすと、ある程度被るところも出てくるものなのか、と思わず感心してしまった(私は誕生日で運命が決まるとは思っていない立場なので)。

他にも、これまでの経緯や今の仕事について細かく話してくれたのだが、後からそれらがほぼそのまんま分かり易くまとめられている記事を見つけたので、是非、こちらのリンク(colocal)も見て頂ければと思う。そこには高島屋のルーツが高島にあるらしい事も書かれていて、毎日のように玉川高島屋にお世話になっている私としては、またまた驚かされたのだった。

3日後のKIN249(G5/12)、Sさん(KIN159)がウォーターセラピーに来られ、セッション中に滋賀の事を話題にされた。建築家のご子息が仕事の関係でここのところ割と頻繁に滋賀に通っている事、ご主人のご実家も滋賀にあること、さらに継体天皇が滋賀の出身だという話までされるので、私はすっかり驚いてしまった。私の方から話題を振った訳ではなかった上、15年以上つき合いのあるSさんから初めて聞く事ばかりだったからである。

さらに、ご本人が安曇野出身という事まで耳にしたら、流石に志賀島や安曇族の話をせずにはいられない。『宇宙の暦は13ヵ月・新装版』を出して下さっているプレアデス出版さんが安曇野にある事や、3日前に知ったばかりの滋賀県高島と継体天皇の関係、志賀海神社での奉納の事などひと通りお伝えした。すると、一時期神道の勉強もされていたとかで、穂高神社と安曇族の関係ばかりか、志賀海神社の平澤憲子さんのお兄様(他界された宮司さん)のお顔までご存知だという(直接会われている訳ではない模様)。

それだけではない、Sさんの来所時に、蘭禅はその志賀島に住む亜久理さんと書のスカイプレッスンをしていたのである。Sさんの来所はほぼ3ヶ月ぶりだったし、亜久理さんのレッスンはもともとは違う日時だったのが、諸事情でSさんの来所に被る形になってしまったもので、全くの偶然であった。しかし、以下の事実は、それが実は偶然ではなかったのかもしれない事を示唆している。

私達が玉川高島屋のデッキから四重虹を見たのは、2015.9.9(KIN159)。つまり、志賀島に住む亜久理さんの365日暦の誕生日G9/9と、安曇野出身のSさんの260日暦の誕生KINが重なった日だったのである!4重虹で結びつけられた日付同士の繋がりが、今度は実在の人物同士のシンクロとして再現されたのである。こうしたシンクロは、やはり何度体験しても驚きに満ちているし、不思議だ。

トシとは、古代における日本海側の交易、特に糸魚川翡翠が広い範囲で流通していた事も話題にしていたので、この時、Sさんがまさにその「糸魚川翡翠」のペンダントをされていた事も偶然とは思えなかった。この流れからすると、いずれ継体天皇生誕地の高島も訪れる事になりそうである。

翌日のKIN250(G5/13)、「時のからだ塾」MLに八王子の関野さん(KIN75)が「2016.9.24(KIN19)に日本の国石が糸魚川の翡翠に決定したと日本鉱物科学会が発表した」と書かれていて、その事実を知らなかった私は、まず単純にその事に驚き、そして、今のタイミングでこの情報を知った事に更に驚いた。

さらに翌日のKIN251(G5/14)、剣武天真流の本部稽古に、少し前まで糸魚川に住んでおられ、今は八王子在住のS師範が参加されていた。一連の流れもあったので、糸魚川翡翠について聞いてみると、「確かに駅とかに国石になったというポスターとかありました」とか「糸魚川では昔、それほど価値があると思っておらず漬物石とかにヒスイ原石を使っていたそうです」という話を聞く事が出来た。

これだけ綺麗な文脈で翡翠や安曇や高島が繋がって来ると、古代の時空間が、このタイミングでまとまって浮上して来ているようにも思えて来る。この物語には多くの人々が関わっているが、特に鍵となる人物を挙げるとすれば、やはり小崎亜久理さん(KIN219)と言う事になるのではないだろうか。志賀島出身というだけでなく、「青いスペクトルの嵐の年」はそのKIN219から始まっていて、その一年の中で、一気に話が加速しているからである。

12:60的な(時計時間を主体とする)発想では、もう日付を跨いでしまった事になるが、私的には眠りに就くまでは前日の流れの中にいる感覚なので、サイ時間単位がKIN219の今日中に何とかこのブログをまとめられて、少しホッとしている。この先の展開も、きっと予想を超えたものになるのだろうが、思い切り楽しんで行きたいと思う。

鎌倉みちのく魔術紀行(3)

2015年08月28日 00:36

■月の月5日(G8/27)KIN146 白い電気の世界の橋渡し (by D)

宮沢賢治の誕生日は1896年8月27日(KIN131)。つまり、今日はその119周年に当たる。この「鎌倉みちのく魔術紀行」は、私の「運命の道筋」が、賢治の誕生キンであるKIN131(1・猿)になった事をきっかけにして書いて来ているものなので、賢治と四次元的に同期状態となった自分の誕生日(G8/12)の出来事について記すには、もってこいの日と言える。尚、KIN131は調波33の中にあり、今日は元旦から33日目に当たる。

当初、私は江ノ島と鎌倉のどちらから巡るかについて考えていた。結局、「青い磁気の猿」がドリームスペル旅程盤の西の端のウェイブスペルである事、ドリームスペルの動きは全て反時計回りである事、さらに、13年前の「1・橋渡し」の位置から見ると、新しい13年の始まりである「1・猿」は南西方向にあり、我が家から見て南西は、鎌倉より江ノ島方面である事等から、先に江ノ島に向う事にしたのだった。そうする事で、空間の移動と時間の動きを同期させる事が出来るように思えたからだ。

朝、二子玉川から中央林間に向かう電車の中で、高倉健(KIN234=ユング)の『あたなに褒められたくて』を読了。以前、善光寺に関するシンクロを発見した時に、北条家の血を引く健さんが鎌倉の東勝寺跡を訪れると、いつも特殊な変容状態に入ってしまうと書いていたのを思い出し、それを再確認したかったのと、放置したままになっていた後半1/4位を、この機会に読んでしまおうと思っていたのだ。

小田急に乗り換えて片瀬江ノ島に着いたのは、9時くらいだっただろうか。散策にちょうど良い曇り空だと思っていたら、次第に晴れて来て、気温も急に上昇し始めた。高校時代には部活で走って登っていた江島神社境内の階段も、ゆっくり登るだけで汗が吹き出して来る。宗像三女神を祭った、辺津宮、中津宮、奥津宮と順に参拝した後、個人的に最も関心があった岩屋に向かう。

一度登りきったところから、海岸まで急な階段を降りて行く。観光用に整備し直された岩場の洞窟(岩屋)は、私の記憶とは大分印象が異なっていたが、平成5年までは長らく閉鎖されていたようだから、きっと当時は外から眺めただけだったのだろう。江島神社は欽明天皇13年(552年)に、この岩屋から始まったとされていているが、その後も信仰の場として長く大切にされ続けてきたことが、洞窟内の雰囲気や石仏などから伺い知れる。
奥津宮★奥津宮の拝殿、北条氏の家紋「三つ鱗」が見える

天女と五頭龍伝説にちなんだちょっと安っぽい太鼓アトラクションのある第二洞窟まで巡った後、気持ちの良い海風が吹いている岩場をブラブラしてから、来た道を戻った。奥津宮には「八方睨みの亀」や「亀石」があり、途中の池にも生きた亀が何匹も居て、流石に「魔術の亀の日」だと感じる。島のあちこちでピーヒョロローと鳴きながら優雅に滑空するトンビ達にも出会った。
八方亀 ★八方睨みの亀

岩屋に意識を向けすぎていたのか、弁財天が祭られている場所を見逃していたので、確認しながら戻ると、辺津宮に八角形の弁天堂があった。しかし、改装工事中で、有名な二体の弁天像は社務所の一室に展示されているらしい。江ノ島に来た目的の一つは、弁天様にご挨拶することでもあったので、入場料を払ってその部屋に入ってみた。
亀石 ★亀の甲羅のように見える「亀石」

誰もいない部屋には、正座で参拝するよう注書きがされていて、弁天像に関する音声案内がリピートしている。しばし瞑想しながらそれを聴いていて驚いたのは、奥州の藤原秀衡調伏祈願のために 、源頼朝が文覚上人に命じて造らせたのが、鎌倉時代初期の作とされる八臂弁財天だという解説を耳にした時だった。ひとつ前の記事に書いた通り、5日前に届いた天野氏からのメールがきっかけとなって、私は奥州藤原氏について調べたばかり。弁財天像の1つがそういう由来の作品だったとは、初めて知った。

もう一方の妙音弁才天は、裸弁才天とも呼ばれる全裸体の珍しい像だが、こちらは教科書か何かで見た覚えがある。その後も、誰も入って来ないので、少しだけ立ち上がって近くで像を観させてもらったが、弁天堂が工事中でなかったら、こんな至近距離では見られなかったかもしれない。部屋から出ると、ちょうど次の参拝客がやって来た。

最後に辺津宮のおみくじを引いてみると、私は45(中吉)、Lは34(大吉)。KIN45は「6・蛇」、KIN34は「8・魔法使い」で、ドリームスペル神話では、いずれも失われた惑星マルデクの軌道に対応する。弁財天の奏でる琵琶が、銀河の五度和音を響かせるという事なのだろうか。また、その差11は、ホゼの誕生KIN&「青い猿」のコード番号であり、合計の79は「青い磁気の嵐」で、どちらも変容の西を示す。
トンビ 
お昼が近くなっていた事もあってか、朝はまだ人がまばらだった参道には人が溢れ返り、暑さもグッと増して来た。途中、コンビニで涼を取りながらでないと江の電の駅まで辿り着けなかったかもしれない。家の垣根スレスレを走る所は変わらず江の電らしかったが、床の油の臭いもあまりガタゴトいうことも無い新しい車両は、どうも味気ない気がした。鎌高前の様子もすっかり変わってしまっていたが、ホームの作りが古いままだったのには、ちょっとホッとさせられた。

しかし、日坂の踏切を通過する時に目にした光景には驚かされた。ネットニュースなどを通じて、海外からもスラムダンクの聖地巡りをするファンが押し寄せている事は知っていたが、実際に、あんなにカメラを構えている人々がいるとは思わなかった。30年前と変わらないもの、すっかり変わってしまったものの両方を感じながら、江の電に揺られて、私達は鎌倉駅に向かった。八方睨みの亀、八角形の弁天堂、八臂弁財天など「八」がやたらと来ているのは、持統天皇の頃からの流れだが、それはこのミニトリップの締めにも響いて来るはっきりとしたサインだった(つづく)。

鎌倉みちのく魔術紀行(1)

2015年08月21日 01:39

磁気の月26日(G8/20)KIN139 青い太陽の嵐(by D)

「運命の道筋」が新しい13年サイクルへと入る(=銀河の音が1になる)年は、人生における「魔術飛行」が生じるという意味で、重要なターニングポイントの一つだと思う。これは、誰かに教わった知識で語っているのではなく、20年近く『13の月の暦』を使い続け、身近な人々を観察し続けて来た私自身の実感である。

それだけに、「ドリームスペル創世記」の観点から見ても最大の変換ポイントの一つと言える「青い磁気の猿」(KIN131)の道筋に入って行く事には、特別な思い入れがあった。加えて、KIN131は宮沢賢治の誕生キンだ。父や祖父、親戚達が卒業した高校(旧制中学)の先輩でもある賢治に、ある種の親近感と憧れを感じていた私は、自分達の活動名にも、賢治の『農民芸術概論』にインスピレーションを得た「時間芸術学校」の文字を入れている程だ。

そんな訳で、今年の誕生日の過ごし方については、結構真剣に検討していた。何事も「始め方」が肝要である事を、天真体道(剣や書、瞑想)の稽古や暦の体験を通じて、ひしひしと感じて来たからだ。おそらく、今生において、自分の心身の充実度が(総合的に)最も高まる期間でもあると思うので、そのスタートには大いなる魔法を掛けておきたい。

しかし、具体的に予定を決めたのは、誕生日を9日後に控えたKIN122(G8/3)になってからだった。どうしてそうしたのかは忘れてしまったが、私はまず、賢治と三陸地震の関係を再確認する事から始めた。パレンケでパカル王の墓が開封された1952年6月15日(KIN218)からぴったり56(7×8)年前の1896年6月15日(KIN58)、明治三陸地震が起こっている。賢治が生まれたのはその73日後、「赤い自己存在の月の年」の元旦(=KIN69)から33日目の8/27(KIN131)である。

一方、昭和三陸地震が起きたのは1933年3月3日(KIN199)。賢治が他界したのは、その年の9/21(KIN141)で、「黄色い律動の種の年」の元旦(=KIN84)から58日目に当たる日であった。パカル王やパレンケの「碑銘の神殿」に関する数字に詳しい方なら、ここから様々なサインが読み取れる事だろう。

しかし、わざわざお盆の大移動と重なる時期に、賢治の足跡を辿ってみちのく方面に向かうのは気が進まないし(行くなら別なタイミングを選ぶ)、万難排して訪れたくなるような場所も思いつかなかった。そこでふと浮かんだのが江の島だった。沖縄のカミンチュ外間先生(※)が「弁財天と縁がある」と伝えて下さったのを思い出したのだ。先生は私のぴったり1スピン前が誕生日なので、「運命の道筋」も常に私に先行する形で同期する事になる。ひと足先に賢治の道筋(1・猿)に入られた外間先生が、今、行くべき場所を思い出させて下さったのかもしれない。

(※)外間先生に関しては「おきなわ祈りの旅」シリーズに記してある

鎌高陸上部時代に、江の島の頂上まで登って帰って来るコースを何度か走った記憶はあるものの、江島神社をきちんと参拝した記憶は殆ど無いし、弁財天についても三大弁財天というのを耳にした事があるだけで、参拝した事があるのかどうかも分からない始末。外間先生からお話を伺った時に、「江の島の弁財天をお参りしなくては」と思ったのにも関わらず、実行に移せないまま時間が過ぎていた事、二子玉川からだと割と交通の便も良く、多少暑くても早めに出れば大丈夫だろうと思えた事で、誕生日巡礼の第一候補に江の島が躍り出たのだった。

だが、それを「決意」のレベルにまで変容させたのは、江の島の歴史を調べ直した時に判明した、以下の情報によるところが大きかった(以下、Wikiより抜粋引用)。

・文武天皇4年(700年)4月 - 役小角が江の島の岩屋に参籠し、以来、島全域が聖域として扱われた。
・弘仁5年(814年) - 伝承によれば空海が金窟(現・岩屋)に参拝し国土守護・万民救済を祈願、
社殿(岩屋本宮)を創建、神仏習合により金亀山与願寺(よがんじ)という寺院になったという。
・寿永元年(1182年) - 源頼朝の祈願により文覚が弁才天を勧請。
・文治元年(1185年) - 頼朝が弁才天(現・奥津宮)に鳥居を奉納。
・建久元年(1190年) - 北条時政、江の島に参籠、一族の繁栄を祈願する。
この時、龍神の残した3枚の鱗をもとに、北条氏・「三鱗」の家紋と定めた。
・弘安5年(1282年) - 一遍(いっぺん)鎌倉入りを拒まれ、江の島へ渡島したと伝える。
・1600年(慶長5年) - 徳川家康が参拝した。

縄文時代から人が住んでいた場所というのにも大いに刺激を受けたが、個人的に最もインパクトがあったのは、役小角が岩屋に参籠したという話だろう。【持統天皇と「八」の秘密】にも書いた通り、役行者とのシンクロは、ここ半年程ずっと続いているからだ。だが、空海もリアルタイムでビシバシ来ているし、頼朝は通っていた附属鎌倉中のすぐ隣で鎌倉幕府を開いた人物だし、文覚は洒水の滝を拓いた方だし、北条氏は高倉健からの繋がりがあるし(後述する予定)、時宗の宗祖である一遍は、かつて学んだ枇杷葉温圧療法とも関係が深い。という事で、「これは何としても江の島(特に岩屋)に行かなくては」と思ったのであった。
写真 ★江の島岩屋付近からの風景

また、江島神社の御祭神が、宗像三女神だと知った事も、その決意をより確かなものにさせた。何しろ、古事記においては、誓約において、天照御大神が須佐之男命の「十拳剣」を譲り受けて生んだ神々。仏教との習合によって、弁財天女とされ、江島弁財天として信仰されるに至り、 海の神、水の神の他に、幸福・財宝を招き、芸道上達の功徳を持つ神として、今日まで仰がれるようになった…とも公式サイトには書かれている。水に関する仕事をし、剣を教え、書を学ぶ私にとって、これ以上ぴったりな巡礼地はなかろう。

ところで、これら一連のメモを手帳に書込んだりツイートメモしたりした翌日のKIN123(G8/4)、帯広の時空のサーファーJさんが、以下のようなツイートを(私が江の島にチャンネルを合わせる前の)8/2の時点でしていた事に気付いた。

”今日、車の中でつけていたテレビから、ちびまる子ちゃんが「ミツウロコ、ミツウロコ」と連呼。普段、観てないので、なんだ?と思って観たらCMだった。「ミツウロコ」のマークは、江ノ島の弁才天の紋章や、宇宙図書館の入り口にある「勇気の紋章」と同じカタチの図形。”

Jさんは『シンクロニック・ジャーニー』P93に登場するKIN20の人物と同一人物だが、流石に私(KIN241)の「神秘のパートナー」(※)だけあって、いつも私を予期せぬ情報で驚かせてくれる。ちなみに、『シンクロニック・ジャーニー』にバックミンスター・フラーはKIN20と書いてしまったのは私の勘違いで、フラーの誕生キンはKIN240が正しい(お詫びと共にこの場で訂正させて頂く)。

(※)KIN番号の合計が261になるドリームスペル特有の組み合わせで、マヤ暦にそのような考え方や計算法は存在しない

G8/4がKIN123だった事で、私はパカル王の石棺が開いた日付について、やっと本気で探求する気になった。石棺の開封がKIN123だった事は、ホゼの資料にもよく出て来るのだが、それがG暦で何月何日に相当するのかは、(私の知る限り)邦訳資料のどこにも書かれておらず、推測の域を出ないままになっていたのだ。しかし、英語で検索すれば出て来るのではないか?と今ごろになって思い立ち、実行してみると、あっという間に確認出来てしまったのである。

先の三陸地震との関係もあるので、整理して書いておこう。パカルを埋葬した「碑銘の神殿」の墓室の扉が開いたのは、1952年6月15日(KIN218)。その後、遺体が眠っていた石棺の蓋が開封されたのは、同年11月27日(KIN123)。従って、今年の8/4で、開封88銀河スピンという事が判明した。

ちなみに、墓室開封から20年後の1972年6月15日はKIN238で、江島神社の住所「江の島2丁目3番8号」と数字の並びがシンクロする。「神秘のパートナー」であるKIN20のJさんが江の島について言及していた事、マヤの数学が20進法であった事、伊勢の式年遷宮が20年単位である事などがつらつらと思い出される。

本当はあともうちょっと書き進めてからひと区切りとしたかったが、そろそろ電池切れになって来たので、この記事を書いた日の出来事で、この「鎌倉みちのく魔術紀行」と密接に関係しているように思える、全国高校野球選手権大会決勝の結果だけメモして本稿を終えようと思う。

東海大相模、高校野球100年目の夏を制し45年ぶり2度目のV」。これが8/20(KIN139)に記録しておきたいニュースのタイトルである。決勝で素晴しい試合を見せてくれた東海大相模(神奈川)と仙台育英(宮城)は、私にとって、鎌倉幕府と奥州藤原氏(あるいはエミシ)とのせめぎ合いのようにも観えた。

前提となる情報がないと、すっ飛び過ぎた話に聞こえるだろうが、これから先、解き明かされて行く流れを見て頂ければ、それなりに共感してもらえるのではないかとも思う。一部だけメモしておくと、私が誕生日(G8/12)に江島神社で引いたおみくじは45で、かつて岩手県大会で優勝経験のある父が他界したのはKIN45であった(当時は県大会で優勝してもそのまま甲子園には行けない時代)。父の本籍地は岩手だったが、人生の半分以上は神奈川県人として過ごした。

さらに、東海大相模の住所は「相模原市南区相南3-33-1」、仙台育英は「仙台市宮城野区宮城野2-4-1」と「多賀城市高橋5-6-1」にある事が、今日分かった。鎌倉を含む相模国のエリアと、蝦夷との境界に当たる軍事拠点「多賀城」のエリアでの決勝。3331の鏡数字1333は鎌倉幕府が滅亡した年であり、241は、この一連の出来事に注目し、発見をし続けている私の誕生キンである。もちろん、そこに繋がりを見出すのは私の勝手な妄想かもしれないが、メモしている内容は全て事実である。

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