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滋賀(志賀)ー 高島 ー 安曇の活性化

2017年05月19日 03:06

スペクトルの月17日(G5/18)KIN255 青い銀河の鷲

中学時代の同級生で、部活も同じで、誕生日(磁気の月18日&KIN241)まで全く同じ人物が居る。その平井俊旭君(以下トシ:中学時代の呼び名)からFBを通じて連絡があったのはG4/15(KIN222)。数年前に学年全体の同窓会があった時に顔を合わせて以来なので、かれこれ5年ぶり位だろうか。確か当時は、スープストックトーキョーの仕事をしていたはずだが、メッセージには「今は滋賀県の高島市っていうところに住んでいて、行政の仕事を受けて地域の活性化のような仕事をしてます」とあった。

それで改めてプロフィールを見ると、「雨上株式會社」社長となっている。いつの間に!と思ったが、おそらく今の仕事と関係があるのだろう。連絡のきっかけは水に関する事だったようで、しばしメッセージのやり取りをして、「まあ、近いうちに会おう」という流れになった。ところで、高島市ってどの辺りなのだろう?と気になって調べると、琵琶湖の西岸北寄りのかなり広いエリアである事が分かった。地図を拡大してみて驚いたのは、市の中心部に流れている川の名が安曇川だった事。

今年の春分(KIN196)とその翌日の2日間、安曇族発祥の地とも言える志賀島で過ごして来たばかりのタイミングに、それも、「スピリットを伝える」13日間(風のウェイブスペル)の初日に、水をきっかけに連絡が来るとは面白過ぎる。しかも、この日は剣武の奉納演武をさせて頂いた志賀海神社で「山誉種蒔漁猟祭」が行われていた日。志賀島の小崎亜久理さん(KIN219)が「時のからだ塾」MLで知らせて下さったのだが、このお祭りの中で、古来「君が代」が神楽歌として歌われ続けて来たのである。

更なる驚きは、お祭りが行われるG4/15(惑星の月12日)のサイ時間が、常に権禰宜の平澤憲子さん(KIN193)の誕生KINに対応するという事。加えて、G4/15は「13の月の暦に替える平和の運動」に強い影響を与えた「レーリヒ条約」(文化財保全を目的とした初期の国際条約)が調印された日でもあるのだ!

翌日、トシから「FBで君が代の書を見たけど、あれは最高だね!スゲー!」とコメントがあった。まさにその書こそ、志賀海神社に蘭禅が奉納した作品なのだが、その経緯については【「君が代」発祥の地・志賀島へ】にまとめてあるので、そちらを参照いただければと思う。

志賀海神社3 ★蘭禅による奉納書「君が代」

その9日後のKIN231(G4/24)は、蘭禅の79回目の銀河の誕生日とレオナルド・ダ・ヴィンチの565回目の誕生日、さらにレーリヒのKIN204(サイ時間)が重なるスペシャルな日で、私達は所用で自由が丘に居た。途中、メガネドラッグで眼鏡を洗わせてもらっていると、「おばら!」と見知らぬ(ように見えた)男性から声をかけられた。何と、中学の同級生K君だった!彼とも前の同窓会以来だから、やはり5年ぶり位。よくもこんな所で私を見つけられたものだ。

タイミング的にも面白かったので誕生日を確認しておくと、3/19(KIN200)との事。その日だったかその前日だったかにプリンスの319という曲を久しぶりに聞いていただけに、これまたビックリだったが、今年の3/19はKIN195で、ちょうど出雲大社(杵築東195)で剣武の奉納演武をさせて頂いた日(KIN195)からぴったり260日後という関係になっていた。そして、私達はその日、ANA241便で福岡入りしているのである。

この流れの発端は、2年前の誕生日(2015.8.12)にあると私は感じている。何故なら、私はその日からKIN131(1・猿)の道筋に入り、その4日後に志賀島(&安曇族)と繋がるきっかけとなった人物・亜久理さんと出会っているからである。誕生日当日の事をまとめた「鎌倉みちのく魔術紀行」シリーズの第6話「四重虹」には、以下のような記述もある。

”『ドリームスペル(13の月の暦)』旅程盤に由来を持つ反時計回り(ネジを緩める方向)のウェイブスペルの動きは、「偽りの時間」(12か月の暦)が生じたとされる約5125年前から現在までの時間を、解放(浄化)しながら再構築するプロセスを示してもいる。今回の日帰り紀行は、それを個人史に応用したもので、江島神社鶴岡八幡宮→横須賀線上り(帰路)という地理的な反時計回りと、高校→中学→小学校という時間的逆行とをシンクロさせ、その時々に混入した(無自覚な)12:60的影響を解放するという試みでもあった。”

亜久理さんと出会ったのはハーモニック・コンバージェンス28周年当日のG8/16(KIN135)。その日行った暦クラスのメモには、「福岡から一番乗りでやって来られて日帰り」「例題に立候補:KIN219、月の月18日(G9/9)」とある。上記「四重虹」に詳しく書いてあるが、自分の誕生日から28(4×7)日後の亜久理さんの誕生日(G9/9)に、4重の虹(7色)が出たのには、流石に驚いた。

四重虹1 ★玉川高島屋のデッキより

その後、2016年5月に石川県羽咋郡志賀町(後に志賀島との関係を知る)で剣武の合宿があり、7月に出雲大社で奉納演武。この時、津和野方面も巡った事は【石州和紙を通じて剣武創始の時空に出会う】に記した通りである。結局、トシとはG5/9(KIN246)に自由が丘で会う事になったのだが、その5日前のKIN241(G5/4)に彼が居たのは、何と津和野であった。そして、互いの近況を話す中で、私が初めて知ったのは以下のような事だった。

・トシが現在住んでいるのは高島市安曇川(あどがわ)という所であること
・鎌倉-高島-出雲は、一直線上にあること
ホツマツタエの完全版は高島市で発見されていること
・第26代継体天皇の生誕地は現在の高島市であること
雨上株式會社という社名は水の循環になぞらえてあらゆる循環を象徴していること

最後の点は、『霊性のアート』で提示した「球状精神宇宙モデル」のイメージとも重なるところがあり、生年月日が同じで、同じタイミングに同じ学校で少年期を過ごすと、ある程度被るところも出てくるものなのか、と思わず感心してしまった(私は誕生日で運命が決まるとは思っていない立場なので)。

他にも、これまでの経緯や今の仕事について細かく話してくれたのだが、後からそれらがほぼそのまんま分かり易くまとめられている記事を見つけたので、是非、こちらのリンク(colocal)も見て頂ければと思う。そこには高島屋のルーツが高島にあるらしい事も書かれていて、毎日のように玉川高島屋にお世話になっている私としては、またまた驚かされたのだった。

3日後のKIN249(G5/12)、Sさん(KIN159)がウォーターセラピーに来られ、セッション中に滋賀の事を話題にされた。建築家のご子息が仕事の関係でここのところ割と頻繁に滋賀に通っている事、ご主人のご実家も滋賀にあること、さらに継体天皇が滋賀の出身だという話までされるので、私はすっかり驚いてしまった。私の方から話題を振った訳ではなかった上、15年以上つき合いのあるSさんから初めて聞く事ばかりだったからである。

さらに、ご本人が安曇野出身という事まで耳にしたら、流石に志賀島や安曇族の話をせずにはいられない。『宇宙の暦は13ヵ月・新装版』を出して下さっているプレアデス出版さんが安曇野にある事や、3日前に知ったばかりの滋賀県高島と継体天皇の関係、志賀海神社での奉納の事などひと通りお伝えした。すると、一時期神道の勉強もされていたとかで、穂高神社と安曇族の関係ばかりか、志賀海神社の平澤憲子さんのお兄様(他界された宮司さん)のお顔までご存知だという(直接会われている訳ではない模様)。

それだけではない、Sさんの来所時に、蘭禅はその志賀島に住む亜久理さんと書のスカイプレッスンをしていたのである。Sさんの来所はほぼ3ヶ月ぶりだったし、亜久理さんのレッスンはもともとは違う日時だったのが、諸事情でSさんの来所に被る形になってしまったもので、全くの偶然であった。しかし、以下の事実は、それが実は偶然ではなかったのかもしれない事を示唆している。

私達が玉川高島屋のデッキから四重虹を見たのは、2015.9.9(KIN159)。つまり、志賀島に住む亜久理さんの365日暦の誕生日G9/9と、安曇野出身のSさんの260日暦の誕生KINが重なった日だったのである!4重虹で結びつけられた日付同士の繋がりが、今度は実在の人物同士のシンクロとして再現されたのである。こうしたシンクロは、やはり何度体験しても驚きに満ちているし、不思議だ。

トシとは、古代における日本海側の交易、特に糸魚川翡翠が広い範囲で流通していた事も話題にしていたので、この時、Sさんがまさにその「糸魚川翡翠」のペンダントをされていた事も偶然とは思えなかった。この流れからすると、いずれ継体天皇生誕地の高島も訪れる事になりそうである。

翌日のKIN250(G5/13)、「時のからだ塾」MLに八王子の関野さん(KIN75)が「2016.9.24(KIN19)に日本の国石が糸魚川の翡翠に決定したと日本鉱物科学会が発表した」と書かれていて、その事実を知らなかった私は、まず単純にその事に驚き、そして、今のタイミングでこの情報を知った事に更に驚いた。

さらに翌日のKIN251(G5/14)、剣武天真流の本部稽古に、少し前まで糸魚川に住んでおられ、今は八王子在住のS師範が参加されていた。一連の流れもあったので、糸魚川翡翠について聞いてみると、「確かに駅とかに国石になったというポスターとかありました」とか「糸魚川では昔、それほど価値があると思っておらず漬物石とかにヒスイ原石を使っていたそうです」という話を聞く事が出来た。

これだけ綺麗な文脈で翡翠や安曇や高島が繋がって来ると、古代の時空間が、このタイミングでまとまって浮上して来ているようにも思えて来る。この物語には多くの人々が関わっているが、特に鍵となる人物を挙げるとすれば、やはり小崎亜久理さん(KIN219)と言う事になるのではないだろうか。志賀島出身というだけでなく、「青いスペクトルの嵐の年」はそのKIN219から始まっていて、その一年の中で、一気に話が加速しているからである。

12:60的な(時計時間を主体とする)発想では、もう日付を跨いでしまった事になるが、私的には眠りに就くまでは前日の流れの中にいる感覚なので、サイ時間単位がKIN219の今日中に何とかこのブログをまとめられて、少しホッとしている。この先の展開も、きっと予想を超えたものになるのだろうが、思い切り楽しんで行きたいと思う。
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鎌倉みちのく魔術紀行(5)

2015年09月11日 22:02

月の月20日(G9/11)KIN161 赤い倍音の竜(by D)

オープンしたての丸山珈琲でリフレッシュした後、段葛が終わる三の鳥居まで行ったところで右折して、それをそのまま突き当りまで東に向って歩き続けると、宝戒寺に行き着く。附属中の正門から真っ直ぐ南に150m程しか離れていないのに、高倉健(13・魔法使い)の本を通じて関心を持つまで、この寺の名前も場所も全く知らずにいた。健さんの『あなたに褒められたくて』には、当時の住職の言葉を借りて以下のような説明がなされている。

”ここ宝戒寺はかつて、代々の北条家当主の館、得宗屋敷のあったところだという。鎌倉幕府の執権として、幕政の実権を掌握した北条時政から高時まで、十四代が住まいとした地である。”(中略)”宝戒寺は、この高時以下の怨霊弔祭のために建武二年(1335年)、後醍醐天皇が開基となり、足利尊氏に命じて、小野亭と呼ばれた得宗館跡へ建立したのだそうだ。”

歴史上これだけ重要な場所であれば、当然どこかで教わったり耳にしたりしている可能性はあるのだが、少なくとも私の記憶には何も残っていなかった。しかし、鎌倉幕府の執権が十四代住み続けた地に、現れを仕上げる「白い惑星の魔法使いの年」(紋章コード番号14)の、しかも自分の誕生日に、初めて意識的に訪れる事になるとは、まことに魔術的である。本シリーズ(1)に書いた通り、江ノ島鎌倉巡りをしようとした主なきっかけは他にあったのだから、もし健さんの本を読んでいなかったら、宝戒寺については未だに知らいままだった可能性が高い。

”建久元年(1190年)- 北条時政、江の島に参籠、一族の繁栄を祈願する。この時、龍神の残した3枚の鱗をもとに、北条氏・「三鱗」の家紋と定めた” と魔術紀行(1)で引用した内容に、どこまでの信憑性があるのかは知らないが、宝戒寺の門にも、江島神社で見られたのと同じ北条氏の家紋「三つ鱗」が、はっきり見て取れるように使われていたのは確かである。世間では「萩寺」として親しまれているらしく、実際、参道も境内も萩が生い茂っていたが、まだ花の季節ではなかったし、半ば生え放題のような印象もあって、正直あまり風情があるとは思えなかった。

境内をひと巡りしてから門を出、段葛に並行する道を海の方に向かって(丸山珈琲の裏手の方へ)進むと案内板が見えて来る。そこを左折して滑川に架かる東勝寺橋を渡ると、住宅地の合間を抜ける坂道は次第にキツくなり、程なくして左手にフェンスで囲まれた広い空き地が現れる。それが東勝寺跡であった。三代執権・泰時(→明恵上人とも交流があった)が北条氏の菩提寺として建立した東勝寺は、1333年の新田義貞の鎌倉攻めによって灰燼に帰したという。真夏の昼間だというのに、何とも寂しげな所で、ハイキングコースから降りて来た賑やかな集団が居なかったら、きっともっと寂しい雰囲気だったに違いない。

滑川を渡った辺りから場が変わったというLは、それ以上先に進もうとしなかったが、私は「高時腹切りやぐら」の案内がある所まで進み、洞窟みたいな横穴の前に立つ卒塔婆が見える位置まで近付いてみた。しかし、そこまでの道が雑草で殆ど塞がれていたのと、卒塔婆の上を一匹(頭)の黒アゲハがヒラヒラふわふわと舞い続けているのを目にして、何となくそれ以上近付くのは止めた方が良い、という気分になった。それで、心の中で般若心経を唱えてから、来た道を戻ったのだった。

それにしても、北条氏の一族八百七十余名が自害して果てたという場所のすぐ側で、普通に生活されている方々がいらっしゃるのには驚かされた。もちろん、そういう事をいちいち気にしていたら、どこにも住めなくなってしまうが、あの独特の雰囲気は、Lみたいな感覚の持ち主でなくても、何かしら感じるものがあるのではないだろうか。まあ、どんな環境もそれが当たり前になっていると、意外と何でも無いのかもしれない。

そんな事を話しながら、再び宝戒寺の前を通ってそのまま北上し、学校の正門から部活で駆け回っていたグラウンドを眺め、敷地の南側の道を八幡宮の境内に向った。源平池の亀や鯉は、近くで餌が売られいるせいか妙に人間慣れしていて、岸に近付くだけで一斉に寄って来る。中には這い上がって来る亀までいたが、蓮で埋め尽くされた池の辺りは、通学当時の面影がそのまま残っていて懐かしい思いがした。
源平池 
5年前のG3/10(KIN231)、Lは自身の誕生キンとチベット民族蜂起51周年が重なるこの日に合わせて、天真書法塾シャンバラ教室をスタートした。驚くべき事に、同日、樹齢千年と言われる鶴岡八幡宮のご神木・大銀杏が倒れた。翌3/11に急遽状況を観に現地を訪れた事も含め、当時の事は過去記事まとめてあるが、みちのくと鎌倉の関係性も踏まえつつ今振り返ると、その1年後に生じた東日本大震災との繋がりについても考えたくなる。

もちろん、当時はご神木事件(木を弱らせる薬剤が注入されていた等)が各地で頻発しており、人為的な何かが関与した可能性も十分考えられるが、流石に倒れるタイミングまでは調整できないだろう。考えてみれば、八幡宮に参拝するのもあの時以来かもしれない。大銀杏の切り株からは、沢山の若芽がグングン成長していて、新しい世代が順調に育っているのが感じられた。階段を登り切ったところで後ろを振り返ると、若宮大路(段葛)が海の方まで真っ直ぐに伸びているのが一望出来る。

御正殿に参拝し、恒例のおみくじを引く。神籤箱を振ると、出て来たのは8番だった。隣で別な箱を振っていたLも同じく8番!八幡宮で二人揃って「八」というのは、それだけで縁起が良い気がするが、「運は始めから身の内にある」とか「願望:自然に叶って行く」など、まるでゾクチェンの任運成就のような書かれ方がしてあるこの神籤の運勢は「吉」。「千代経とも かくてあるべき 新しき 年の初めの 今朝のこころは」という歌も、新しい13年の始まりにピッタリで、ありがたく受けとめた。
88.jpg 
同時に、8+8=16とか8×8=64という数字は、私にJAL123便の事を思い起こさせるものでもあった。鎌高生だった16才の誕生日(KIN101)に、高天原山御巣鷹山は誤報道)に墜落した日航機には524名の方が乗っており、520名の方がお亡くなりになった。16年後の32才の時、私は易の64卦を『13の月の暦』の周期で意識化する銀河ツール『時間の法則の20の銘板』日本語版の世話人を引き受け、カンパされた予算から520部を制作&配布した(その当時の私は123便の目的地であった大阪に住んでいた)。当時、予算から500部前後が制作可能と判断され、それならツォルキンの倍数にしようと言う事で決まった数で、事故との関係は全く意識していなかった。

後にこの関係に気付いた時には流石にゾッとしたが、もし2つの出来事の間に何かしら関係があるのなら、『20の銘板』の配布には、きっと慰霊の働きがあるはずだ、と私は信じることにした。そして今回、新たに気付いたのは、おみくじにもある鶴岡八幡宮の「紋」とJALのシンボルマークが、共に「鶴丸」紋であるという事だ。調べてみると、JALは元々使っていたこのマークを、経営統合された2003年から再出発となった2011年までの8年間だけ使用していなかった。

以下、既に書いた事も含め、数字関連のメモをまとめておこう。誕生日の8日前G8/4のKIN123は、パカル王の石棺開封(1952年11月27日)から88銀河スピン(88×260日)のタイミングであり、石棺開封のぴったり30年前の1922年11月27日に、宮沢賢治(KIN131)はその日他界した妹とし子のために「永訣の朝」を詠んだ。JAL123便は、八幡宮を参拝したぴったり30年前の私の誕生日に、相模湾上空でトラブルが発生して高天原山に墜落した。
八重洲 
今日、このブログを途中まで書いて日中出かけた時、ふと目に入って来た住所は八重洲2丁目8-8だった。また、巡った順番とは違うが鎌倉の住所データは以下の通り。
丸山珈琲 :雪ノ下1丁目10-5
鶴岡八幡宮:雪ノ下2丁目1-31
附属中学 :雪ノ下3丁目5-10
各住所の前半は123便やKIN123とシンクロし、それ以下の数字はある種の対称性を示している。10+5=5+10=15は、鶴岡八幡宮の御祭神、第15代応神天皇とシンクロし、1-31は八幡宮を訪れた誕生日当日のKIN131とシンクロしている。八幡宮の住所が131とシンクロする事はG8/3(KIN122)の時点で気付いていたが、江ノ島弁財天をきっかけにした誕生日の巡礼参拝が、こんなに盛り沢山で多重な物語を呼び起こすとは思わなかった。

後日談がまだ少し残っているが、911から14年、「白い惑星の魔法使いの年」(KIN114)、キチェマヤに伝わる古代からのツォルキンだと、ちょうど「10イシュ(ドリームスペル形式でKIN114に相当)」だった今日の内に書いておきたかったのは、この辺りまでである。

大イチョウ

2010年03月12日 22:58

太陽の月6日 (G3/12) KIN233  赤い水晶の空歩く者 (by D)

KIN231(G3/10)は、天真書法塾シャンバラ教室の開講日だった。多次元的なシンクロが沢山ありすぎるので、これについてはまた項を改めるが、この日は世間的に見ても、大きな変化が感じられる一日だった。東京大空襲65周年、チベット民族蜂起51周年、佐渡では天然記念物のトキ10羽がテン(と思われる動物)に襲われ、鶴岡八幡宮では樹齢千年と言われるご神木の大銀杏が倒れた。

どの出来事にも様々な思いが湧き起こるが、七五三の頃からお世話になり、境内のすぐ隣にある中学に通っていた私は、やはり大銀杏のニュースに最も驚かされた。何しろ、校歌にも「うつり変わる 千年の 歴史のながれ うけとめて 風にうそぶく 大銀杏 ああ 鶴ヶ岡・・・」という形で、その不変性が詠われていたのだ。まさか自分が生きているうちに倒れるなんてことは想像もしていなかった。さらに、それが3/10だったことが、私に余計にインパクトをもたらした。東京以外の場所に住み、チベットやシャンバラとも無縁であれば話は違ったのだろうが、まるで狙ったかのように、それら全てが結びつく日だったからだ。
 
もっとも、私はこれを不吉なサインとして受け止めた訳ではない。むしろ、千年以上もの間保たれてきた何かが解き放たれて、新しい世界へと参入して行く象徴的な出来事なのではないかと感じていた。ちょうど、その日の午前中の新体道クラスで、今週のコドン「ハートの解放」を意識した瞑想を行ったからかもしれない。

翌3/11(KIN232)、Lに続いて間もなく天真書法塾の支部教室を開講される菅原咲蓮さんの個展を観に、東神奈川へと向かった。西洋のカリグラフィーも学ばれた菅原さんならではの素晴しい融合作品や臨書、作品のテイストとピッタリ呼吸の合った落款などに唸りつつ、ご本人からも制作秘話を伺うことが出来た。前日まではそのまま帰宅の予定だったのだが、居合わせたタカちゃん共々急遽鎌倉へ。目的は二つ。久々のオクシモロンのカレーと八幡宮のオオイチョウだ。
 
かつて我が家から歩いてすぐのところにあった珠玉というお店で、その名の通り珠玉のカレーを創っていた村上愛子さんが鎌倉にオープンしたお店が、オクシモロン。菅原さんの会場に青木先生の「愛」という作品が展示されていたことを思い出しつつ、絶品の和風キーマカレーを味わう。それにしても、小町通も八幡宮の境内も、平日の午後だというのに、まるで休日のような人混みだ。久しぶりの晴天という事もあったと思うが、やはり、皆、イチョウを見に来ているのだろう。

源平池辺りからの風景が既に違って見えたのは、本殿への階段の横に、あるべき巨樹が無かったからに他ならない。倒れた大銀杏はまだ生きているように見えたが、周囲には柵が設けられ、中央の階段は閉鎖されていた。しばし感謝の気持ちを捧げた後、側面から本殿に登って参拝し、若宮大路から帰ることにした。三の鳥居付近で出会った下校途中の後輩達(考えたらもう自分の子供世代だ)は、早速、替え歌校歌を口ずさんでいた。
 
思えば、1週前の同日(KIN225)、この通学路を共に通った友人Kと二子玉川で会っていた。面白い縁のある男で、共に戸塚から通い、同じ陸上部に所属し、同じ高校に進み、同じ予備校で浪人生活を送った(私の方が1年余計に長かったが)。大学も何故か近所で、社会人になってからもオフィスが近く、関西で過ごした時期も重なっていた。そして、今は同じ路線の3つくらい隣の駅に住んでたりする。年に1回会うか会わないかだが、正月明けに久しぶりに酒を飲んだ。そして、そこから正確に2ヶ月(28日×2)後に、もう一度、二子玉川で会う事になったのだった。
 
話は少し戻って2月末(KIN221)、湯布院に小旅行した際、別府市内に「マナブレッド」というパン屋さんをオープンしたカーラ・チャクラ&書法塾仲間のチエちゃん(同じ大学の先輩でもある)を訪ねた。これについてもまた機会を改めて報告したいことが沢山あるのだが、どうしてもここで書いておきたいことが一つある。それは、チエちゃんの誘導で4件目のランチ候補の店「亀正」(結局ここで食べた)に到着した時のことだった。そのKから携帯にメールが入ったのだ。
 
というのも、私が初めて別府を訪れたのは、大学時代にそのKと九州旅行をした時で、今回はそれ以来16年ぶり生涯2度目の別府訪問だったからだ。メールが届くこと自体が希な私の携帯に、別府に到着した瞬間にメールして来た相手が、かつて別府を訪れた時に同行していた人物だったというのは、驚きに値する。目的は近々台湾旅行をするので、(割と頻繁に台湾を訪れている私に)話が聞きたいというものだった。
 
それで、実際話をしたのがKIN225であり、台湾から戻ったという連絡がKから入ったのがKIN232、つまり大銀杏を訪ねた昨日だった。湯布院に行く直前「ドリームバンク瞑想」の内容に、「9という数について」という項目を急遽付け加えたのだが、正月明けにKと飲んでからピッタリ9週目が昨日で、実際に中学時代の通学路を歩いていたのだから面白い。
 
実は、大分空港に到着した瞬間から「ドリームバンク」と「9」に関するシンクロは猛烈に始まった。しかし、これについては、ご縁のある方に直接お伝えしたいと思っているので、残席のあるうちに、「春分スペシャルワークショップ」に申込んで頂ければと思う。もちろん、リクエストがあれば、また別な機会も設けるが、何ごとも旬な時が一番エネルギーが高いので、その時を逃さず味わって頂きたいのである。

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