■月の月19日(G9/10)KIN5 赤い倍音の蛇(by D)
イタリアの旅については、メルマガでゆっくり7回位に分けて報告して行こうと考えていたのだが、帰国後も発見が続いていて、後から自分のメモを解読する自信もイマイチ持てないので、どうしても記録しておきたい事を、先にまとめておこうと思う。
今回の旅が始まる直前に、私は
レオナルド・ダ・ヴィンチがKIN186(4・橋渡し)で生まれ、KIN219(11・嵐)で死んだ事を知った。
メルマガ Vol.63の【 ルネサンスの都へ(1) 】に記したように、今回の旅は、ダ・ヴィンチと切っても切れない関係にあり、それは終盤になるほど加速した。
旅程はKIN254(G8/30)〜KIN1(G9/6)。奇妙な動きを見せていた
台風10号は、直前まで進路がはっきりせず、私達の出発日を知っていた人々は、飛行機が飛ぶかどうかを心配してくれていた。関東に上陸する可能性も十分あったし、たとえ上陸はしなくとも暴風域が広ければ飛行機は飛ばない。実際、東北、北海道方面の国内線は殆どが欠航していた。
しかし、私達は二子玉川で自宅からリムジンバスに乗るまでの間も傘いらずで(乗車直後に雨)、飛行機も定刻通りに飛び立ってくれた。それどころか、KIN243(G8/19)に誕生し、ウェイブスペル回りに移動しながら観測史上記録的な長寿台風となった10号は、虹を添えて私達を送り出してくれたのだった。
旅立ちの日に、日本の生態地域(橋渡し)に台風(嵐)が来ただけでも、ダ・ヴィンチとの繋がりを感じるのに、レオナルドという名が、ラテン語 の”leo(ライオン)”とゲルマン語の”harti(堅い)”に由来することを知ると、その台風が「
ライオンロック(獅子岩)」という名だった事も偶然とは思えなくなる。
ダ・ヴィンチ空港から始まったローマでも、もちろん沢山のシンクロがあったが、ここでは
フィレンツェ入りしたKIN256(G9/1)以降の事を書いておきたい。Lが見つけてくれた宿は、
フィレンツェのシンボルとも言えるドゥオーモ(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)にほど近いLe Stanze del Duomo。快適かつ便利な宿だったが、中庭に面した部屋から見えるのは、同じ建物の壁に区切られた青空と、大聖堂の頂きに輝く十字架黄金球のみ。
フィレンツェカードを手に入れて最初に訪れたのもドゥオーモのクーポラで、まさにその黄金球の真下まで近付いたのだが、その球を制作し、1471年にクーポラ天頂部に据え付けたのが、アンドレア・デル・
ヴェロッキオとその弟子
レオナルド・ダ・ヴィンチだったと知れば、「部屋からそれしか見えない」事にも特別な意味を感じてしまう。
その日(KIN256)、アルノ川の南側で晩ご飯を済ませた私達は、あまりの満腹状態に、少し歩いて腹ごなしをしてから、別の店でドルチェだけ頂く事にした。アンテナに引っかかったのは『
ことりっぷイタリア』P27に出ていた
チブレオ・カフェ。そのコーナーに掲載されていたカフェの中で、最も遅い時間帯まで開いていて、「下町にある」というのに引かれたのだが、それが今回の旅を最高に盛り上げてくれる場所になるとは、この時はまだ気付いていなかった。
到着した時点で、22時を回ろうかという時間帯だったのにも関わらず、通りに並べられたテーブルは、大勢の人で賑わっていた。最初、間違えて入ったのがイル・チブレオというリストランテで、カフェとは別にトラットリアもある事を知ったのは、後になってからだった。カフェに入ると、入口近くに居た日本人らしきバリスタが「こんばんは」と日本語で話しかけてくれた。
店内の雰囲気も素敵だったが、殆どの人は外で食事を楽しんでいて、大いに盛り上がっていたので、私達も外に席をつくってもらって、
ラズベリータルトひとつをシェアしつつカプチーノを頂く事にした。タルトを口にしたLが驚きの表情を見せたのは、その美味しさが想像を越えていたからだったが、私も食べた瞬間「これは並の店じゃない」と悟った。
帰り際、現場でテキパキと指示を出していた若女将みたいな人が「ユースケは最高のバリスタなのよ!」と褒めると、彼はちょっと照れていたが(その言葉をユースケさん自らが訳す事になったので)、このお店には、気持ちの通った何かがあって、舌だけでなく、心も満たされた気分で、まだまだ夜が更けきらないサンタンプロージョの通りを楽しみながら帰路に着いたのだった。
それから3日後のKIN259(G9/4)は、イタリアで過ごす最後の夜だったが、連日、かなりの距離を歩き続け、大量の名芸術作品に触れ続けた結果、流石に疲れ果てて、最後の食事をどこでするのかを考える気力も、殆ど無くなりつつあった。その時、ふと思い出したのがチブレオだった。
そこで、『
地球の歩き方 フィレンツェとトスカーナ2015~16』を調べてみると、何と「イル・チブレオ」「トラットリア・チブレオ」「
チブレオ・カフェ」が、それぞれ掲載されているではないか!しかも、トラットリアの説明には「レストランとほぼ同じ料理を手頃な料金で楽しめるのが魅力」とあり、カフェの方にも「夜はレストランと同じメニューも味わえる」とあった。
「
フィレンツェの名店のひとつ」と書かれているレストラン以外は予約不可で、相席の可能性もあるとの事だが、3日前の様子から想像するに、席が全く無いとは思えない。何よりレストランと同じメニューを手頃な料金で味わえるなんて、それだけで嬉しいではないか。ドルチェやカプチーノがあそこまで美味しければ、料理だって美味いに違いない。
そんな訳で、チブレオ行きが決定。宿でひと休みして、21時を回った頃に到着すると、外は変わらず賑わっていたが、カフェ店内には犬を連れたマダム(おそらく地元の人)しか居なかった。カフェの中をもう少しゆっくり見たかったと言っていたLにとっても好都合な状況で、今度は店内をチョイス。日本語メニューは無かったが、バリスタのユースケさんが(本来の仕事ではないのに)丁寧に説明して下さったお陰で、食べてみたいものを自分達に合った量だけ頂く事が出来た。
もちろん、味は全て申し分無し。静かな所で雰囲気を味わいたい人にはリストランテが良いのかもしれないが、地元の人たちと同じノリで気取らず食事をしたいと考える私達にとっては、場所も最高だった。多分、日本人の中でも食べる量が少ない部類に入る私達の注文方法は、結構イレギュラーなスタイルだったのでは無いかと思うが、それをごく当たり前のような感じで受け、適切な形にアレンジしてくれたユースケさんには、この場を借りて改めて感謝したい。
名物のチーズケーキとエスプレッソで締めて、
フィレンツェでの「最後の晩餐」を堪能した私は、出来たての
剣武天真流の名刺を彼に渡しつつ、スマホで試し斬りの動画をチラッとお見せした。すると、わざわざ店長(オーナーが留守との事でその息子さん)を連れて来てくれたので、流れで記念撮影する事に。それで分かったのは、オーナーのファビオ・ピッキという方は、しょっちゅうテレビやラジオに出るような有名人らしいという事。このお店に感じられた「場」は、きっとそのファビオさんの思想(生き様)によるものなのだろう。
最高に良い気持ちで通りを歩いていると、何とも魅惑的なメロディーが少し先の広場から聞こえて来る。どこかで聴いたような?と思って耳を傾けつつ近寄ると、何と、私が愛して止まないエンニオ・モリコーネの曲ではないか!!しかも、管楽器の生演奏だ。ダ・ヴィンチの誕生KINがモリコーネと同じKIN186だと知ったのは、「青いスペクトルの嵐」の年に入ってから。
旅の仕上げに、何という洒落た演出なのだろうか!一体、誰がこんなに盛り上がるタイミングで、無限の可能性の中からわざわざモリコーネの曲を選び、こんな形で聞かせてくれているのだろう!!そういう思いと、聞こえてくる感動的な曲調とが重なって、私は思わず泣きそうになってしまった。
チョンピ広場のロッジア(開廊)で演奏をしていたのは、割と若い5人組で、取り囲んでいる聴衆の中から時々人が歩み出ては、投げ銭(そっと置く感じ)をしている。最初に聞こえていた曲の次もモリコーネで、今回、ピサで再会した若き
剣武の道友・ニコロも知っていた曲だった(前日私がモリコーネのファンだと言ったら口ずさんでくれた)。
モリコーネ特集なのかと思って、私も投げ銭をしてそのまま聴いていると、3曲目は全く違った曲(誰でも知ってるような曲だったがタイトルは失念)になってしまった。つまり、ちょっとタイミングがズレていたら、モリコーネの曲は聴けなかったのだ。本当に何と言う采配だろうか。あまりに嬉しくてウカレていたのか、珍しく道を間違えて、宿の方角とちょっとズレたレプップリカ(共和国)広場に出てしまった。
しかし、チョンピ広場のロッジア(イルカの彫り物等がある)が、元々はレプップリカ広場にあった魚市場のものだと知ると、導かれたようにも思える。ちなみに、そうした背景や、そもそもロッジアとは何か?を調べたのは、帰国後のKIN2(G9/7)になってからの事。この開廊は、ヴァザーリの作らしいのだが、最初にLが調べた時にヴォロッキオと勘違いして記憶していた事で、私はヴォロッキオについても調べる事になった。
だが、それが更なる驚きの発見へと導くのだから「予期せぬ働き」(「嵐」の出来事を神秘キンの「風」に調べて発見)は面白い。ダ・ヴィンチが弟子入りしたヴォロッキオの工房はどこにあったのか?を調べるうちに、「
石田雅芳のフィレンツェ藝術逍遥」というサイトを見つけ、何とプリセッション的にダ・ヴィンチが住んで場所を知る事になったのだ。
そこに記されていた住所「Via de' Martelli7」をグーグルマップに入れ、出て来た地図を見た時の驚きと言ったらなかった。何故なら、それは私達が滞在していたホテルの殆ど真向かいの場所(同じ通り)で、フィレンツェを去るKIN260(G9/5)の朝、急にディスプレイされた本が気になって撮影した「まさにその場所」だったのだ!
グーグルマップのストリートビューで角度を少し変えてみれば、そのディスプレイコーナーの真上に、確かに「ダ・ヴィンチはここに住んでいた」というような内容が「1919年5月、400周年忌」と共に刻印されているのを、誰でも観る事が出来る。私達は、まさかそんなプレートがそんな場所にあるとは知らずに、毎日その目の前を通っていたのだった。
結局、
ヴェロッキオ工房の方の正確な位置は分からずじまいだったが、チブレオでユースケさんが名刺代わりに(名前とメールアドレスを書き込みつつ)下さったお店のカードを裏返すと、カフェの住所が「Via A. Del Verrochio, 5r」となっている。これって、もしかして
ヴェロッキオ通り!?と再びマップに入力して調べると、リストランテとカフェの間にある20〜30m程しかないあの通り(カフェの前のテーブルが置いてあった所)だと判明。
リストランテは「Via A. Del Verrochio, 8r」だが、トラットリアともう一つの系列店(演劇場)は、そこからほんの数mしか離れていないのに入口がその通りに面しているからか「Via de macci」となっている。wikiで
ヴェロッキオを調べると、「聖アンブロージョ教会地区で生まれた」とあるし(まさにチブレオのあるエリア)、名前もアンドレア・デル・
ヴェロッキオだから、カフェの前の通りが
ヴェロッキオにちなんで付けられたものなのは間違いないだろう(生誕地かどうかは不明)。
ここまで来ると、ヴォロッキオとダ・ヴィンチに遊ばれているような気がして来る。よく見たら『地球の歩き方』にも同じ住所がちゃんと出ていたが、工房の場所を調べようという動機が無かったら、ここまで住所を追求することは無かったかもしれない。もし、この流れの全てを「偶然」で片付けられる人がいたとしたら、それはそれで面白いが、私達とはあまりに感性が違い過ぎて話が通じない気がする。
ダ・ヴィンチの住まいを、そうと知らずに撮影してから1、2時間後、私達はフィレンツェ空港内の書店に居た。カフェにも置いてあったファビオさんの本の英語版があって、写真も内容も素敵だったので、その場で手に入れる事にした。その後、待ち時間にネットでも色々調べてみると、この方は素晴しい芸術家であり、彼が生み出したチブレオは、フィレンツェはもとよりイタリア屈指の名店だという事を知った。
初日の夜に、何となく行ってみたお店を通じて、まさかこんな驚きの連続を体験させてもらえるなんて、夢にも思っていなかったが、予想できないこういう流れがあるからこそ、旅も人生も面白いのである。
ところで、通りで最初に聞こえて来たのが何と言う曲だったのか、実は私は知らなかった。『
Cinema Paradiso: The Classic Film Music Of Ennio Morricone』というCDで何度も耳にしていたメロディーではあったが、どの映画のサントラなのかも知らなかったのだ。昨夜それを調べて、13曲目の「A Fistful Of Dollars」だと判明。そこで、今度はそのタイトルから映画について調べて、以下の情報を得た。
『A Fistful Of Dollars』は、
クリント・イーストウッド(KIN233)が主演し世に知られるきっかけとなった、初のマカロニ・ウェスタンで、邦題は『荒野の用心棒』。しかし、YouTubeで英語タイトルを入れても、なかなかCDと同じ曲が出て来ない。それでやっと分かったのは、最も盛り上がるラストシーン、砂埃の中からイーストウッドが姿を現す時に使われた曲だったという事。どうりで、あのフレーズだけでグッと来るものがある訳だ。
ちょうど、その調べをしていた頃、MXTVで放映されていたジョジョ第四部でも、前半のクライマックス(吉良を追いつめるシーン)を迎えていた。そして、私は悟ったのだった。「ああ、承太郎のイメージは、やはりマカロニ・ウェスタンのイーストウッドから来ているのだ」と。実際、2012年、荒木飛呂彦が52才の時にイーストウッドと対談もして、承太郎の絵を贈った事が『
JOJOmenon』に出ているし、「荒野に立つ
クリント・イーストウッドこそ、空条承太郎のモデルです」と明言もしている。
チブレオを出たあのタイミングであの曲を耳にしていなかったら、この発見もずっと後になっていた事だろう。やはり
台風10号に送り出された今回の旅は、荒木先生(KIN10)とも深く関係していたようだ(メルマガに書いた通り、2013年にはフィレンツェで個展も開いている)。
最初は、色々発見したKIN2にブログを書き上げるつもりだったのだが、あまりに追加次項が多くなり、書き足し書き足しするうちに今日になってしまった。しかし、結局カフェ・チブレオの住所、そしてホテルの部屋番号(5)ともシンクロするKIN5になったのだから、これで良かったのかもしれない。
イタリアに滞在していた第6週目(13の月の暦で)の1週間は、ずっとこんな調子だったが、特に骨格となる体験を、記憶が混乱しないうちにここに書けてホッとしている。やれやれだぜ。