2015年01月14日 03:40
■共振の月4日(G1/13)KIN180 黄色いスペクトルの太陽(by D)
『13の月の暦(ドリームスペル)』では、3日前のG暦1/10から、13ヵ月の中心に当たる7番目の「共振の月」に入った。そこにピッタリシンクロする形で「ゾクチェン七鏡の教え」の法話会が、3日連続で行われることを知った私達は、2014年末にその開催が発表された時点で申込みを済ませていた。
このタイミングは実に美しく、「7」で共振しているだけでなく、3日間の中日は「9・鏡」の日に当たり、日本では鏡開きの日として知られる1/11でもあった(ちなみに「ボンの九乗」という分類法では9番目がゾクチェンとされる)。さらに、この3日間のサイ時間単位は「7・蛇」で、会場はひとつ隣の駅(歩いても30分程度)と来たら、参加しない訳には行かないだろう。
もちろん、学生の頃からゾクチェンに関心を持っていた私にしてみれば、上記のようなシンクロを一切抜きにして、教えそのものに関心があったというのが一番の動機だった。しかし、その教えを説かれるリンポチェが、私達にとって馴染み深いカトマンズのティテン・ノルブッツェ僧院の方で、法話会の開催に中心的に関わっていたのが、二子玉川ラサでイベントをご一緒したこともある箱寺(森)孝彦さんだった事は、当然、無関係ではない。
2010年にティテン・ノルブッツェ僧院を初訪問した時の写真
ティテン・ノルブッツェ僧院や箱寺さんとの出会いについては『マヤのリズム』(P165〜)に「2600日後の贈り物(ボン教との出会い)」という項でまとめてあるし、『霊性のアート』にも、箱寺(森)さんが翻訳された『智恵のエッセンス ボン教のゾクチェンの教え』からの引用を、P207以降でさせて頂いている。そういう繋がりが無ければ、私達もメルマガでアナウンスしたりはしない。
今回来日された方とは別のリンポチェ。
2012年に2回目の訪問。マナサロワールのサンモ校長と。
さて、今回の「七鏡の教え」は、ボン教ゾクチェンの大成就者デンパ・ナムカが著したものとされている。誓約があるので、詳しい内容をここに記す事は出来ないが、とても貴重な教えが沢山含まれていたのは言うまでもない。通訳が入って、質疑も殆ど無制限に受付けられていたため、テキストの半分くらいまでしか進まなかったが、中には思いがけない展開で聞けた話もあったし、主催者サイドも初めから全部を終えるつもりはなかったのかもしれない。
リンポチェから直に教えを聞ける良い点は、瞑想時にイメージする対象の大きさや動き、ポーズ、あるいは発声など、テキストだけでは伝わりにくい側面について、かなり明確かつ具体的に教えていただける点である。貴重な教えの詳細を伝えて下さっただけでなく、どんな質問にも丁寧かつフランクに回答して下さったリンポチェと、ゆっくりと分かり易い言葉で通訳して下さった箱寺さんに、まず心からの感謝を捧げたい。また、このような機会を作って下さった有志の実行委員会の皆様にも深く御礼申し上げる次第である。
ただ、次の機会のために勝手なリクエストを書かせてもらうと、質疑は一人ひとつとか時間枠を決めてとかにして欲しかったというのがある。ダライ・ラマ法王のように自ら仕切られて、下らない質問(本人が自己満足的に納得したいだけで他の参加者にとっては何ら益とならないものや質問にすらなっていない感想)にはNext!と言える方なら良いのだが、通訳を挟むのなら通訳者か司会者が仕切らないと、延々と枝葉末節なことで時間が浪費されてしまうことに成りかねない。実際、私にはそう感じられる場面が結構あった。
あるいは「心の本性」に留まっていれば「下らない」とか「時間の浪費」というような判断も存在しないのかもしれないが、メモする人を思いやってゆっくり通訳されるのであれば、他に質問したいと思っている方や、テキストの後半について知りたいと思っている方にも、もう少し気持ちを向けて良かったのではないだろうか、と素朴な疑問が残る。
もっとも、箱寺さんは、テキストの翻訳だけでなく、リンポチェの来日手続きや会場手配等の準備から告知、会場設営から現場での通訳、リンポチェや参加者一人一人への気遣い、後片付けまでのほぼ全てを中心的に担われていて、それどころでは無かったかもしれないし、有志で組織された実行委員会にも勝手が分からない事が多々あったであろうことは、推察できる。
しかし、お手伝いしたいと思う気持ちを持ちながら会場に残っていた多くの参加者が、しばし何も出来ないままウロウロしていたのは、自主的、自律的に動こうにも、誰に何を聞いていいのかすら分からない状況があったからだと私は思う。どんな形であれ、何かを主催するからには、仕切り(号令者)は必要なのだということを改めて学ばせて頂いた次第である。
ところで、鏡開きの「9・鏡」の日は、剣武天真流本部の稽古初めでもあったので、その日は午前中だけ法話会に参加させて頂いて、午後は稽古に向かったのだが、今回、ゾクチェンの深遠なる教えを受けている最中に剣武の稽古をしてみて改めて感じたのは、剣武天真流や天真書法塾のベースにある天真思想とゾクチェンとの間の共通性や親和性についてだった。
本格的に学んでいないものを安易に結びつけることは避けるべきなのかもしれない。が、少なくとも私が見聞きし体験した限りでは、双方のエッセンスは実によく似ているのである。おそらく他の道や教えも、究極的なところまで行くとほぼ同じようなことを伝えているのだとは思うが、ある種の勢いだとかダイナミックさという点において、他とは違った近さをこの2つの思想の間には感じるのである。
と同時に、その境地が実現されているかどうかが明瞭に分かるという点においては、武道の形をとっている剣武の方に多少分があるようにも思う。これこれこういう体験をしたならばその境地に達している、というような表現がゾクチェン経典の中には良く登場するが、やはり経験豊かな師がいなければ、それが個人的な妄想なのかどうかを識別するのは難しいだろう。
一方、剣武では、ある種の気付き(悟り)が妄想かそうでないかは、実際に組手や組太刀を行ってみれば、たちどろこに分かってしまう。あるいは型を演じるだけで明らかになることもある。そこが厳しいところでもあり、道として優れているところでもあるのだが、一歩間違うとただのチャンバラになってしまう可能性もあるので、どの道を行くのであれ、優れた師のもとで学ぶに越したことは無い。
結局、何かひとつの道を深く探求して行けば、色々と観えてきて、他の道からも多くの事が学べるようになるものだが、そこには「覚悟」が深く関与しているように私は思う。様々な教えにおいて「戒」が果たす役割も、その辺りにあるのではないだろうか。根無し草的に上っ面だけ舐めてあちこち行くやり方をする人に本物感を感じないのは、本質(根)に向かう流れ、すなわち「覚悟」が感じられないからなのかもしれない。
薄っぺらくて表層的なものばかりが世にはびこるようになったのも、殆どの人が「楽ちんさ」と「簡単さ」を根無し草的に求め続けて来た結果であろう。しかし、薄っぺらいものは壊れやすく、真に心を満たしたり安定させたりする力は無い。心の充足を求めるのであれば、覚悟を決めて本質に向かうしかないのである。18日後の「鏡」の日から始まる【銀河のマヤの共振技術・大阪】も、「覚悟」のある人なら、きっと多くの気付きが得られるだろう。もちろん、らくちん簡単組もお客さんとしては歓迎である(笑)。
『13の月の暦(ドリームスペル)』では、3日前のG暦1/10から、13ヵ月の中心に当たる7番目の「共振の月」に入った。そこにピッタリシンクロする形で「ゾクチェン七鏡の教え」の法話会が、3日連続で行われることを知った私達は、2014年末にその開催が発表された時点で申込みを済ませていた。
このタイミングは実に美しく、「7」で共振しているだけでなく、3日間の中日は「9・鏡」の日に当たり、日本では鏡開きの日として知られる1/11でもあった(ちなみに「ボンの九乗」という分類法では9番目がゾクチェンとされる)。さらに、この3日間のサイ時間単位は「7・蛇」で、会場はひとつ隣の駅(歩いても30分程度)と来たら、参加しない訳には行かないだろう。
もちろん、学生の頃からゾクチェンに関心を持っていた私にしてみれば、上記のようなシンクロを一切抜きにして、教えそのものに関心があったというのが一番の動機だった。しかし、その教えを説かれるリンポチェが、私達にとって馴染み深いカトマンズのティテン・ノルブッツェ僧院の方で、法話会の開催に中心的に関わっていたのが、二子玉川ラサでイベントをご一緒したこともある箱寺(森)孝彦さんだった事は、当然、無関係ではない。

ティテン・ノルブッツェ僧院や箱寺さんとの出会いについては『マヤのリズム』(P165〜)に「2600日後の贈り物(ボン教との出会い)」という項でまとめてあるし、『霊性のアート』にも、箱寺(森)さんが翻訳された『智恵のエッセンス ボン教のゾクチェンの教え』からの引用を、P207以降でさせて頂いている。そういう繋がりが無ければ、私達もメルマガでアナウンスしたりはしない。


さて、今回の「七鏡の教え」は、ボン教ゾクチェンの大成就者デンパ・ナムカが著したものとされている。誓約があるので、詳しい内容をここに記す事は出来ないが、とても貴重な教えが沢山含まれていたのは言うまでもない。通訳が入って、質疑も殆ど無制限に受付けられていたため、テキストの半分くらいまでしか進まなかったが、中には思いがけない展開で聞けた話もあったし、主催者サイドも初めから全部を終えるつもりはなかったのかもしれない。

リンポチェから直に教えを聞ける良い点は、瞑想時にイメージする対象の大きさや動き、ポーズ、あるいは発声など、テキストだけでは伝わりにくい側面について、かなり明確かつ具体的に教えていただける点である。貴重な教えの詳細を伝えて下さっただけでなく、どんな質問にも丁寧かつフランクに回答して下さったリンポチェと、ゆっくりと分かり易い言葉で通訳して下さった箱寺さんに、まず心からの感謝を捧げたい。また、このような機会を作って下さった有志の実行委員会の皆様にも深く御礼申し上げる次第である。
ただ、次の機会のために勝手なリクエストを書かせてもらうと、質疑は一人ひとつとか時間枠を決めてとかにして欲しかったというのがある。ダライ・ラマ法王のように自ら仕切られて、下らない質問(本人が自己満足的に納得したいだけで他の参加者にとっては何ら益とならないものや質問にすらなっていない感想)にはNext!と言える方なら良いのだが、通訳を挟むのなら通訳者か司会者が仕切らないと、延々と枝葉末節なことで時間が浪費されてしまうことに成りかねない。実際、私にはそう感じられる場面が結構あった。
あるいは「心の本性」に留まっていれば「下らない」とか「時間の浪費」というような判断も存在しないのかもしれないが、メモする人を思いやってゆっくり通訳されるのであれば、他に質問したいと思っている方や、テキストの後半について知りたいと思っている方にも、もう少し気持ちを向けて良かったのではないだろうか、と素朴な疑問が残る。
もっとも、箱寺さんは、テキストの翻訳だけでなく、リンポチェの来日手続きや会場手配等の準備から告知、会場設営から現場での通訳、リンポチェや参加者一人一人への気遣い、後片付けまでのほぼ全てを中心的に担われていて、それどころでは無かったかもしれないし、有志で組織された実行委員会にも勝手が分からない事が多々あったであろうことは、推察できる。
しかし、お手伝いしたいと思う気持ちを持ちながら会場に残っていた多くの参加者が、しばし何も出来ないままウロウロしていたのは、自主的、自律的に動こうにも、誰に何を聞いていいのかすら分からない状況があったからだと私は思う。どんな形であれ、何かを主催するからには、仕切り(号令者)は必要なのだということを改めて学ばせて頂いた次第である。
ところで、鏡開きの「9・鏡」の日は、剣武天真流本部の稽古初めでもあったので、その日は午前中だけ法話会に参加させて頂いて、午後は稽古に向かったのだが、今回、ゾクチェンの深遠なる教えを受けている最中に剣武の稽古をしてみて改めて感じたのは、剣武天真流や天真書法塾のベースにある天真思想とゾクチェンとの間の共通性や親和性についてだった。
本格的に学んでいないものを安易に結びつけることは避けるべきなのかもしれない。が、少なくとも私が見聞きし体験した限りでは、双方のエッセンスは実によく似ているのである。おそらく他の道や教えも、究極的なところまで行くとほぼ同じようなことを伝えているのだとは思うが、ある種の勢いだとかダイナミックさという点において、他とは違った近さをこの2つの思想の間には感じるのである。
と同時に、その境地が実現されているかどうかが明瞭に分かるという点においては、武道の形をとっている剣武の方に多少分があるようにも思う。これこれこういう体験をしたならばその境地に達している、というような表現がゾクチェン経典の中には良く登場するが、やはり経験豊かな師がいなければ、それが個人的な妄想なのかどうかを識別するのは難しいだろう。
一方、剣武では、ある種の気付き(悟り)が妄想かそうでないかは、実際に組手や組太刀を行ってみれば、たちどろこに分かってしまう。あるいは型を演じるだけで明らかになることもある。そこが厳しいところでもあり、道として優れているところでもあるのだが、一歩間違うとただのチャンバラになってしまう可能性もあるので、どの道を行くのであれ、優れた師のもとで学ぶに越したことは無い。
結局、何かひとつの道を深く探求して行けば、色々と観えてきて、他の道からも多くの事が学べるようになるものだが、そこには「覚悟」が深く関与しているように私は思う。様々な教えにおいて「戒」が果たす役割も、その辺りにあるのではないだろうか。根無し草的に上っ面だけ舐めてあちこち行くやり方をする人に本物感を感じないのは、本質(根)に向かう流れ、すなわち「覚悟」が感じられないからなのかもしれない。
薄っぺらくて表層的なものばかりが世にはびこるようになったのも、殆どの人が「楽ちんさ」と「簡単さ」を根無し草的に求め続けて来た結果であろう。しかし、薄っぺらいものは壊れやすく、真に心を満たしたり安定させたりする力は無い。心の充足を求めるのであれば、覚悟を決めて本質に向かうしかないのである。18日後の「鏡」の日から始まる【銀河のマヤの共振技術・大阪】も、「覚悟」のある人なら、きっと多くの気付きが得られるだろう。もちろん、らくちん簡単組もお客さんとしては歓迎である(笑)。
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