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瞑想と稽古の力〜断食中の気付きメモ

2017年07月20日 01:23

宇宙の月23日(G7/19)KIN57 赤い倍音の地球(by D)

昨日まで1週間、基本「水だけ」(少々例外あり)の断食を続けていた。我が家では、グレゴリオ暦の年末年始に3日間の断食(酵素飲料等あり)をするようになって10年余り、「13の月の暦」の年末年始に1週間ほどの断食をするようになって3年目で、ある種、年末年始の恒例行事となっている。

目的は心身をスッキリさせることであり、実際にその効果を体感しているから続けているだけで、いわゆる苦行的な感覚は無い。初期の3日断食については、故・甲田光雄先生の著書などを参考に色々と工夫して来たが、水だけ断食については、我らが師・青木宏之先生が教えて下さった方法と、その方法をベースにおそらく最も経験を積んでいると思われる道友の一人・木村悟郎さんのやり方を参考にさせて頂いている。

本来、断食は経験豊かな指導者の下で注意深く行うべきものだが、実験精神の強い私たちは、要点は守りつつも色々と試したくなるタチなので、自己責任で毎回ちょっとずつアレンジしながら臨んでいる。そのまま他者にはお薦め出来ないのと、今回は断食状態での稽古と瞑想についてのメモが主目的なので、細かいやり方は省略させていただく事にする。

1週間の断食となると、復食にも同じかその1.5倍くらいの期間を設ける必要があるので、前後の予定を調整する必要が出て来る。会社勤めの方などに比べれば、かなり時間に自由が効く私たちでも、何も予定を入れない訳には行かない。諸々の条件から、今回は4日目、5日目に剣武の本部稽古が入る形になったが、これは「断食状態で稽古してみたい」という私の希望にもマッチしたものだった。

過去にも1度、断食中か復食中に稽古をした経験はあったが、何とかなった記憶があったのと、4日目くらいだと、かえって「抜け感」(力みその他の)があって良いのではないかという思いもあった。とはいえ、号令を掛ける立場でもある私の責任は軽いものではない。腑抜けた号令をかける訳には行かないので、4日目に当たっていた7/15(KIN53)も、朝、天真柔操、天真五相などを一通り行ってまず自分を整えた。

しかし、もともと貧血気味の私は、大抵3日目位になると手が冷たくなって痺れ始め、急に立つと立ちくらみしたりするようになる。特に起き抜けの時間帯はそれが顕著で、その日も、一連の体操後、シャワーを浴びて着替えていると、何となく視野が白っぽくチカチカする。スマホの画面を見ると、何と、画面全体が白っぽく光っているようで全く文字が読めない。座って呼吸を深めにしていたら徐々に戻って来たが、数時間後に控えた剣武の稽古までに何とかせねばと思う。

貧血気味という事は、少しの運動ですぐにくたびれる状況でもある(筋肉が酸欠状態になって重くなる)。普段ならウォーミングアップも兼ねて駆け上がる駅の階段も、登る気力すら起きずエスカレーターを使ってしまう始末。道場までの電車の中では、とにかく瞑想をして整える事に努めた。その日、天真柔操の号令をかけて下さる関口師範にだけは事情を伝え、万一の時のフォローをお願いしておいたが、道着に着替えると何かスイッチが入ったような感じがして「あ、大丈夫かな」と思えた。

さらに、天真柔操をしているうちに全身に気血が巡る感じがしてきて、「これなら動ける」という実感が強まった。青木宗家をはじめ信頼できる道友の存在、関口師範の号令、そういう働きを普段以上にダイレクトにからだで感じる。お陰で、その後の号令も何とか無事掛けることが出来た。今月から新たに始まったテーマ「抜け出る」を意識した稽古を展開しつつ、折々の重要なポイントで、宗家が極意を惜しげもなく伝えて下さる。何という贅沢で有難い時間だろうか。

途中、入門1ヶ月余りのHさんに向かって「あなたは今、節目なんでしょ?」とおもむろに宗家が言われ、別枠の特別稽古が行われた。これまで様々な武道やボディーワークを通じて、身体の可能性を探求し続けて来られたHさんが、今、まさに重要な変化期にさしかかっておられるのを、宗家は見逃さなかったのだ。ご自分の胸の内を明かしていた訳でもないのに、まさに図星の指摘をされたHさんは、驚きつつもその機会を思い切り活かされていた。

天真一法 ★ル・シエル財団幹部メンバーへ「天真一法」を解説される青木宗家(本年2月)

最後に宗家の指導で行われた「天真一法」は、極めてシンプルながら、大きな変化をもたらすもので、宗家自ら「これは大基本として、天真五相、栄光、瞑想組手(わかめ、ひかり)に加えられるもの」とおっしゃるような極意中の極意。今年、国連で予定されている「12賢人会議」で公式発表される予定だが、剣武の稽古では既に取り入れられている。普段の稽古でも素晴らしい体感があるが、この日は断食中だったからかいつもにも増して格別な解放感があった。

組手 ★宗家による組手シーンの撮影(受けは望月ウィウソン師範)2月

休憩前に宗家が投げて下さった事でさらに巡りが良くなり、急に立ち上がるような運動を繰り返しても全く問題なかった。そして、稽古後は手の痺れも冷えもすっかり無くなっていたのだった。居合抜刀術、剣術の特性を大いに活用しながら、人間存在として、はるかに広大な領域の身体を活性化させるのが剣武天真流なのだ、と改めて実感した1日だった。

明けて7/16(KIN54)。連日の暑さもあるが、やはり断食中は睡眠が浅目になる傾向があり、あまり眠れずに朝を迎える(ちなみに普段の私はあっという間に眠れて朝まで起きない事が殆ど)。PCやスマホのディスプレイを見るよりは、本を読む方がずっとラクな感じがあるので、断食中は夜中に読書というパターンができてしまった。基本、五感は鋭敏になり、音でも香りでも増幅される感じがあるのだが、特に香りに対する感度の変化を感じる。

街の中でよく出くわす耐え難い臭いは、人工香料(化粧品含む)と排気ガス。電車で少し離れた場所に濃い化粧をした人が座るだけでキツイ。香水類もダメだ。しかし、普段はあまり好まないアロマの類が、実は、あまり気にならないことは、面白い発見だった。この日の稽古は、私が天真柔操を担当。前日と同じ稽古会場だからなのか、連日参加しているメンバーがいるからなのか、何か「場」が出来ていている感じがしてやり易い。

本稽古は丸山師範の号令で、「自分で何とかするのではなく、他者のリードに任せきることで”抜け出る”ことを目指す」という方針で、様々なスタイルの稽古が展開された。人によって、リードの仕方が全く異なり、それが動きに新たな多様性を生み出していて、稽古人それぞれが発見の喜びを味わっている様子が伝わって来る。心身が解放され、伸び伸びとした動きをする皆さんの周囲に、時折、白く輝く流れのようなものが見えたのは、多分気のせいではないと思う。なぜなら、稽古後の道友達の顔も同じように澄んで輝いている感じで、とても綺麗に見えたからだ。

この二日間の道場稽古で、ある面抜け出た感じになり、鏡を見ても健全にシャープになったと思えたが、やはり身体のモードはいつもとは違う。やれば大抵の事は普通にできるが、オフモードなので基本トロくてスローな感じになるし、何かしようとする時にいちいち「気合い」が必要になる。しかし、ひとたび動いてしまうと結構何とかなるのが面白いところで、「意識」とか「気持ち」の働きを普段以上に感じる。

今回、新たに発見したのは「瞑想の力」である。ダルくて身体がイラつく感じになっている時、10〜20分の瞑想をすると、もの凄くリフレッシュされるのが分かるのだ。喩えて言うならピンボケしていた画像がクッキリする感じだろうか。そんなことは普段から百も承知なのだが、断食中という特殊なモード&蒸し暑い条件だからこそ味わえる変化というのが、新発見のように思えた訳である。

思えば剣武の稽古の前後も、礼式の中で必ず短い瞑想が行われる。青木宗家が心魂傾けて定められた「礼式」は、決して単なる挨拶の形式などではない。だからこそ、心身をブレのない状態にする具体的な働きがあるのだと思う。これも、今回、断食中だからこそ味わえた実感である。奇しくも、断食6日目にウォーターセラピーにいらした方が、以下のような感想を伝えて下さった。

”今まで色々な瞑想を体験して来ましたけれど、ナディアで体験したあの瞑想(=天真体道瞑想のこと)が、一気に中心に入るような感じで一番良かったです”

ちなみに、私が瞑想の話を振った訳ではなく、全く別な文脈で自ら語って下さったものである。同じ時に参加していた別の参加者の方も、その瞑想法が相当気に入ったようで、二子玉川のクラスにもわざわざ足を伸ばして参加して下さった。確かにシンプルで効果的だからこそ、私達も毎日行っているし、書のクラス、剣のクラスの前にも、必ずその瞑想を行うのである。年内最後は大阪、新年最初は東京でクラスが行われるので、関心のある方はこの機会に体験してみて頂ければと思う。

★7/23(日)大阪チャクラ、水晶の波に乗る動的瞑想法
★7/26(水)二子玉川、「13の月の暦」元旦スペシャル瞑想


剣武天真流の稽古を始めてぴったり八年、断食開始八日(復食一日)目の記念日に。
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鏡と水晶のシャンバラ瞑想

2012年12月18日 21:45

律動の月6日 (G12/18)KIN204 黄色い太陽の種 (by L)

今日はKIN204。ニコライ・レーリヒの誕生キンである。レーリヒとは、シャンバラを探し求めたロシア人の画家で、「13の月の暦に替える平和の運動」にも強い影響を与えている。「何かが間違っているとしたらそれは美しくはないし、美しくないものは何かが間違っている。」美しいか美しくないか。それを道しるべに生きて来た私にとって、このレーリヒの信念は最も強く心に響く。

そのレーリヒの著書を今日は紹介しよう。「シャンバラの道」(中央アート出版) 。れは、今からざっと100年近くも前に、シャンバラを探し求めた彼の分厚い実体験を元に書かれたものだ。(彼はヒマラヤのクルー渓谷ナガールで晩年を過ごし、その地に眠る。昔、私たちが新婚旅行でその地を訪ねた時の事はDがシンクロニックジャーニーに書いた。)それにひきかえ、最近のシャンバラと名がつく本や情報の殆どは、何とふわふわしてファンシーで未成熟なのだろう。源流まで辿ることのできる古典を、何であれまずは知るべきだと思う。

shambara121212


さて、12という数字が3つ重なる2012年12月12日(13の月の暦ではKIN198/白い電気の鏡)に、Dが号令をかける天真体道瞑想クラスで、この日にちなんだスペシャルな瞑想が行われた。鏡と水晶の魔法を使ってシャンバラの意識に入り込む瞑想だ。・・・うわおーーー!!この日のメンバーは、普段からよく一緒に稽古しているOさんとKさん、そして私とDの4人。意識の場は既にできている。

稽古会場の壁一面、床から立ち上がる大きな鏡の前で、4人で半円形を描き、間隔を空けて立つ。すると鏡の前の私たちと、鏡の中の私たちとでつくられる、8人の大きくて美しい輪が出現する。(平面的な輪というよりは、感覚的にはフラーのドームのような空間ができる。)その輪の中心には、その日それぞれが持ち込んだ水晶が集められセットされる。当然水晶もダブル。(水晶=12。8×12=96=これはシャンバラの数。ちなみにこの瞑想の数日後に行われた選挙結果により、安倍晋三氏が96代目の内閣総理大臣となる予定。)

8人の輪の中に立つ時、正面(180度対角線上)に目を向けると、鏡の中に見えるのは自分ではない。これは、何とも奇妙で心もとないほどに新鮮な感覚だ。鏡のこちら側と向こう側、現実と夢の世界の境界線が、もう一気に溶けてしまうが、両方あることによってのみ出現する何かがそこに確かに感じられる。

目に見えている次元に寄り添って存在するもう一つの次元は、こんな風に合わせ鏡のようになっているが、多くの人には普段は見えない。業と徳の力が熟した人以外は行く事も見る事もできないとされる聖地シャンバラもまた、そのように存在している。ある瞬間に偶々出現したり、何かで境界線が揺らぐ時にかいま見えたりするのみだ。

しかし、不可視の領域を積極的に自分のリアリティーの中に招き入れて生きる方法はいくつもある。しかもそれは条件さえ整えば誰にでも開かれている。鏡の前でフォーメーションの一部になってみて、それをはっきりと体感した。あの瞑想の時間には「シャンバラの私たち」がやって来ていた。それはとてつもない、歓びと広がりと崇高な感覚に満ちている。
一度でもリアリティーを感じる事ができれば、あとはそこから広げて行く事ができる。

それにしても、この方法どこからやってきたの?(今まで隠してて!)とDに問うと、だってそれはインスピレーションだよ。と軽やかに笑った。さすが8×12生まれのD、さすがの天真体道瞑想クラスなのである。

頓悟のルーツ

2010年07月24日 01:40

■宇宙の月27日 (G7/23) KIN106 白い月の世界の橋渡し(by D)

熱帯並みの猛暑が始まったKIN102(G7/19)、知らぬ間に大都市化していた立川の街と人混みに驚きつつモノレールに乗換え、ひとつ目の高松駅で降りた。目的地である国文学研究資料館までの道のりは、距離にすれば大した事はないのだが、灼熱の太陽の下、だだっ広い道を歩くには少々遠いと感じる。にも関わらず、会場の大会議室には結構な人が集まっていた。

昨年、大阪千里の国立民族学博物館(通称みんぱく)で行われた「チベット ポン教の神がみ」と同じものが東京でも見られると知って、G昨年末からボン教の波を強く感じていた私は、会期中(7/2~9/10)に1回だけある長野泰彦教授による講演に参加すべく、すぐに予約のメールを送った。また、講演後に予定されていた、教授による会員向け質疑&展示解説を聞きたい一心で(他シンクロも色々あって)、みんぱく友の会の会員にもなった。

「チベット ポン教とは何か」と題された講演の内容は、やはり非常にタイムリーかつ興味深い内容で、それだけで「来て良かった」と思った位だったが、気になっていたいくつかの点について、展示会場で直接伺うことも出来て、私はすっかり満足してしまった。私の素朴な質問にも、気さくかつ丁寧に答えて下さった長野先生に、この場をもって御礼申し上げたい。ちなみに、質問内容は以下の通り(自分用のメモとして記しておく)。
 
ゾクチェンのルーツとしてのシャンシュンとウディヤーナの関係」「オルモルンリンとシャンバラについて」「シャンシュン語とギャロン語の関係性」。いずれも、学術的には現状どういう見解になっているのか、大雑把にでもつかんでおきたかったので、私にとってはこの上なくありがたい機会だった。エリアーデの『シャーマニズム』の翻訳に長野先生が深く関わられていたのに気づいたのも、割と最近のことだったので、何か色々なところで繋がった感じもした。
 
会場には、現みんぱく館長も来られていて、ユーモア溢れる挨拶をされながら来館などを呼びかけられていたが、振り返ってみれば、私は、天真会の青木先生のご紹介で、みんぱくの八杉佳穂先生の研究室に伺った事もあるのだ。奇しくも、会員に届く「月刊みんぱく7月号」には、長野先生と八杉先生の記事がほぼ並んで掲載されている。また、機会があれば、是非、先生方に色々と伺ってみたいものである。
 
ところで、講演の中では「漸悟VS頓悟」「インド仏教の正統的継承VS中国仏教(如来蔵)」「チベット大乗仏教(ゲル派)VS大究竟(→禅への波及)」という切り口での解説もあった。それによると、シャンシュンの辺りに由来を持つゾクチェン(大究竟)の教えは、仏教を取り入れたソンツェンガンポの時代に迫害を受け、半ば中央チベットから追い出される形で、東のギャロン(中国の四川省境界エリア)地方などに逃れて行ったという経緯があるという。
 
12、13世紀頃、ゾクチェンの思想を中心に置くボン教が、そのギャロン地方で大きく発展している点は、同時代にチベット(吐藩)と接していた中国(宋)で禅宗が興隆し、ちょうど日本からも道元や栄西が留学していたタイミングだったことを考慮すると、かなり興味深い。禅宗はインド僧・達磨が中国で開いたものとされているが、達磨の存在自体が伝説的であるし、仏教のルーツに迫るほどに頓悟の思想は見出せなくなる(私の知る限り)事を考えると、ゾクチェンの思想が影響した可能性が、かなりあるのではないかと思えて来る。
 
もしかしたら、漸梧だ頓悟だとこだわること自体がバカげた行為なのかもしれないが、悟りを「気付き」と置き換えてみれば、これらのことは少しイメージし易くなるかもしれない。頓悟・漸悟については、青木先生からも繰り返しお話を伺ってはいるのだが、まだまだ自分では消化しきれていない感じがあるので、この機会に、とりあえず、現時点での整理というつもりで、最後に少しだけメモを付しておきたい。あくまでメモなので、あんまり真面目に読まないようにして頂けたらと思う。
 
私達が普段何かに「気付く」時は、あえて「気付こう」などと思わなくても気付いてしまうものだし、かえって「気付こう」などと思うほどに気付けなくなることもある。かといって、意識が散漫に過ぎたり、逆に集中し過ぎたりしても、やはり何かに気付くことは出来なくなる。とすると、自分が意識的に出来るのは、あくまで「気付くための環境を整える」ことだけになるのではないだろうか。これが漸悟と頓悟という表現で、分離分類されているものの背後にあるものなのではないのだろうか。
 
つまり、「気付き(悟り)」というのは、本質的には頓悟しかなく、修行しながら段階を追って悟る漸悟とは、「気付くための環境を整える」ことにも注意を払った言い方なのではないか、ということである。環境を整えるという中には、出来るだけ修行の妨げになるような障害に出会わないよう戒を守ることも、瞑想や経典研究を通じて、散漫さや偏った見解(意識の集中)から離れるという意味も含まれる。
 
そんな事してもしなくても悟る時は悟るというのが頓悟の見解であり、できる事はやっておこう(人事と尽くそう)というのが漸悟の見解と言えるのではなかろうか。頓悟を声高に叫ぶ者でも、無意識に漸悟的手法を取っていたり、悟りの道は漸悟のみと信じる者も、その瞬間は頓悟的であることを忘れていたりするだけなのかもしれない。いずれにしても、悟り(気付き)自体はコントロールできるものではないという点は、共通しているように思う。結局、言葉とは、どこに注目しているかを示すものなのかもしれない。

瞑想の達人

2010年06月20日 00:49

水晶の月21日 (G6/19) KIN72 黄色い共振の人 (by D)

昨夜、「18の力」というブログを書いたからか、今朝、
瞑想カレッジに向かう途中コンビニに立ち寄ったら、自分の並んだレジのお兄さんがサムライブルー18番を着ていた(他にもスタッフは3名位いて皆異なる番号)。教室に着くと、隣の部屋には「易占集中講座レイモンド・ロー」という看板が・・・。どこかで聞いた事がある名前だなーと思ったら、友人Kさんの風水の先生だと判明。

先の大阪スペシャルセミナーには、そのKさんのご紹介で、やはりローさんに学ばれた熊本の方が参加して下さったりしていたので、面白いご縁だなと感じた。何しろ、会場となっているビルには、もう何年も月3回ペースで通っているが(書と瞑想のクラスで)、レイモンド・ローというお名前に気付いたのは、初めてだったからだ。

カレッジでは、グノーシス派やマグダラのマリア、トマスの福音書等についての講義があり、非常に興味深かったが、やはり瞑想の達人である師のガイドで道友と共に行う瞑想は、いつも特別なものがあると感じる。特に今日はビームが収束するような深さを体感した。最後に、地球交響曲第7番のアナウンスがあったが、実は、私達はランチ後、第4番に登場したジェリー・ロペスに会いに行く計画を立てていた。新著『
SURF IS WHERE YOU FIND IT』の出版を記念したサイン会が、パタゴニアのショップで行われるというニュースを目にしていたのだ。
 
サーファー達にとってはまさに伝説の人だし、予約制とも書かれていたので、せめてチラッと姿だけでも見られたらいいなーというノリで会場の3階に行ってみたのだが、ちょうど隙間タイムだったのか、人がごった返している訳でもなく、すぐにサインをしているジェリーの姿が目に入って来た。メルマガ過去記事にも書いている通り、私達は、このレジェンド・サーファーに多大な影響を受けていて、深い敬意も抱いている。だから、ただその場にいるだけで、もう感激だった。
 
ただ、本もまだ積んであったので、ダメもとで一応聞いてみると、「本当は予約が無いとダメなのですが、特別に」ということでサインの列にも入らせてもらえることに!ジェリーの名を耳にした当初、ジェニファー・ロペスと勘違いしていたような道友のMさんも、私達が「こんなチャンスはない!」と半ば強引に薦め、結局、本を手にして列に並ぶことになった。10分と待たずに順番が回って来て、ゆっくりサインと握手をしてくれ、パタゴニアスタッフが記念撮影までしてくれるというサービスぶり。

JL1    JL2
 
私達は、もともと素晴しい思想で製品をつくっているパタゴニアの大ファンで、それだからこそ、今回のイベントの事も知った訳だが、こういう気持ちの良い、楽しいサービスをされると、「また、ここでお買い物しよう」という気分になる。パタゴニア創設者、イヴォン・シュイナードは、ジェリーの新著のあとがきに「ジェリーはまるで、波の中で優雅に、そしてパーフェクトなタイミングで動くようにストーリーを語る」と書いているが、スタッフの方の場を見ての柔軟な対応も、素晴しい動きだったと思う。
 
それにしても、ジェリーは信じられない程に華奢で、とてつもなく静かな存在感の方だった。人間の力ではどうにもならない圧倒的なパワーの波の中で自在に動けるのは、波と一体化するこの無我の状態を保てるからなのだろう。私はこの日、瞑想の達人(それも動きを通じてその境地に達した)二人に直接出会うという、非常に貴重な体験をしたが、続けてその存在に触れられたことで、改めて確信したことがある。それは、極まった達人は、パッと見達人には見えないということ。それでいながら、普通の人と明らかに違うのは、(力だけでなく何もかもが)完全に抜け切っているということだ。
 
「サーフィンのなかで一番楽しいのは、終わったあとそのことについて話すことだと言う人も多い。確かにそうだろう。サーフィン自体はとても個人的な行為(Personal Endeavoer)だけれど、サーフストーリーは誰でも一緒に楽しみ、多くの人と共有することができる。」「サーフィンを通して何かを悟ること、サーフリアライゼーションの瞬間は、私たちに自分たち本来の可能性を思い出させてくれる。それが、私たちがサーフィンをする理由だとしたら素晴しいことではないか。サーフィンは私たちが本来の自分自身の姿に戻る手助けをしてくれる、それはなおさら、これからもサーフィンを続けていくべき立派な理由ではないだろうか。」
 
以上は、新著から抜粋したジェリーの言葉だが、まるで瞑想カレッジでいつも行われていること(瞑想後のシェアリング)や、書・剣・新体道などを通じて青木先生がいつもおっしゃられていることと同じで(サーフィンの部分を他の言葉に入れ替えたら全く同じ)、やはり同じような境地に達すると、語られることも同じようになってくるのだなーと妙に感心してしまった。同時に、自分が心から尊敬し、目標にしたくなるような方に、こうして直に巡り合えたという幸運を、改めて感謝した一日だった。

多様性と複眼的視点

2009年08月09日 02:11

磁気の月14日 (G8/8) KIN17  赤い自己存在の地球 (by D)
 
今日は、月1回の瞑想カレッジの日だった。講義と実践を通じて、いつも非常に多くのことを学ばせて頂いているが、このカレッジの奥深さは、参加されている皆さんの多様性にもよく現れている。おそらくこれは、学長の青木宏之先生の懐の深さが、そのまま表現されたものだろう。多様性は、自然界が持つ重要な特徴のひとつであり、「自然な場」がそこにあるかどうかを示す指標のようなものとも言える。

帰りにランチをご一緒したメンバーを振り返ってみても、たかちゃん(ドイツ式フットケアの達人)、増田さん(横浜増田窯代表)、極真空手の元チャンピオンMさん、南米育ちの翻訳家Sさん、そして私達と、客観的に見ても、相当面白い気がする。

ところで、私達が絶賛推薦中の『空手仙人 岸信行 枕にキノコが生えるまで泣け!!』に対するMさんの反応は、意外なことに、拍子抜けする程薄かったが、それは本書の内容が、Mさんにとっては慣れ親しんだ当り前の世界だからという事のようだった(どう考えても、私達には当り前とは思えないのだが(笑))。
 
逆に、私達が普段当り前と感じているスピリチュアルな話題(これも一般的にはまだそんなに当り前ではないのかもしれない)に、Mさんはかなりオーバーに反応して下さるのだが、きっとお互いに慣れない世界については、驚いたり興奮したりするものなのだろう。これはとても重要な事で、双方にとって、単に良い刺激となるだけでなく、物事をより複眼的に見る習慣を促すことにもなると思う。

楽しい食事を終えて、二子玉川に戻ったその足で高島屋の地下食料品街へと直行。六本木クローバーで必要なお菓子を入手し、おまけで自分達用にも何か買って行こうと欲を出したところで(これがなければ気付かなかっただろう・・・という事で「欲も活用する」という今日の先生のお話が腑に落ちる)、Lがカウンターの後ろの飾り棚に馴染みのある「青」を発見。何と、「横浜増田窯」の横浜開港150周年記念の器がディスプレイされていたのだ!ほんの20分前まで渋谷でご一緒していた増田さんは、そこの代表者。面白すぎる展開だ。こんな楽しい経験が出来るのも、稽古仲間が多様である事と無関係ではあるまい。

20090808
 
ちなみに、私達が自ら積極的に時間を割いて学びに行っているものの殆どは、青木先生が創始され、指導して下さっているものだ(当然、どれもこれ以上ない貴重な機会だと思っているからだ)。瞑想、天真書法(書道)、新体道、そして最近、公に指導を始められた剣武。学びたいという気持ちがあれば、誰でもどの窓口からでも入門できる。という事は、このブログを読んで下さっている人の中にも、将来、私達の稽古仲間となる方がいらっしゃるかもしれない。自分らしさを探求する者にとって、これ以上の場は、中々無いように思う。何故ならそれは、多様性があってこそ分かることだからだ。

馬の目

2009年04月15日 22:39

惑星の月12日 (G4/15)  KIN162 白い律動の風(by L)

タマタカ近くに、私たちが週に一度は必ず押し掛ける小さなトラットリアがある。いやー、そこのオーナーの仕事っぷりが見事でねー。いつも見とれちゃうの。まるでオーケストラの指揮者みたい。

厨房の中の仕事以外、ホールの何もかもをオーナーが殆ど一人で仕切っているのだけど、全くもって忙しそうな様子も動きの乱れも無く、すべてのお客のそれぞれの勝手なペースを見極め、そして完璧なタイミングでコトを運んで行く。・・・少なく見積もっても、彼一人で4~5人分の仕事をしてるんじゃないでしょうか。

今日も、あまりにも見事なタイミングで食後のコーヒーが運ばれてきたので驚嘆したところ、「僕の目は馬みたく横についてるから視界が180度、360度あるんですよ、だから店の何処にいても何でも見えちゃうんですよ、わはは。」とか言ってたけど、もちろん目の位置はふつう(笑)。

ここで終わってはいけない。更に大げさに褒め讃え、馬の目って何?と食い下がったところ、コッソリその極意を公開してくれた。・・・なるほど、そうであったか。(ご興味のある方には、お会いする機会のあるときにでもお話するとして)つまりは、一点集中に対し全方位集中(ウサギ対金魚)ということね。今の自分の稽古ともリンクしていて、とても響くものがあった。

ヘリオコンパス

2009年03月15日 22:38

太陽の月9日 (G3/15)  KIN131 青い磁気の猿 (by D)
 
銀河の月21日(KIN115)、杉山開知氏(KIN177=赤い銀河の地球)が中心となって開発された「HELIO COMPASS(地球暦)2009」が、アネモネ経由で届いた。開封出来ないまま数日が経過し、G3/1(KIN117=赤い宇宙の地球)になって、ようやくじっくり中身を見ることが出来た。メインのヘリオコンパスも然ることながら、ガイドブックの出来が秀逸で、その日のうちに感動を開知氏に伝えた程だ。

「正しく強く生きることは 銀河系を自らの中に意識して これに応じて行くことである」とか「新たな時代は、世界が一つの意識になり、生物となる方向にある」といった宮沢賢治(KIN131=今日は158回目の銀河の誕生日!)の言葉が効果的に引用されているだけでなく、ヘリオスフィア(太陽圏)と各恒星(系)の位置関係や、地球と各惑星との会合情報など、前々から「あったらいいなー」と思っていた情報が、見事に、しかも美しく表現されている。

余談になるが、「時間芸術学校クリカ」は、賢治の「農民芸術概論」にインスピレーションを得て付けた名前でもある。賢治の母校・旧制盛岡中学(現・盛岡一高)は、私の祖父や父も学んだ学校なので、父の元に届いていた卒業者名簿をずっと遡ると、そこに賢治の名前を見つける事も出来て、親しみを覚えたものだった。

ところで、ヘリオコンパスを実際に使い始めたのは、スチレンボードを手に入れたKIN127(G3/11)の満月からである。使うと言っても、私の場合、水星~火星までの内惑星と月に見立てたピンを日々動かし(それ以外の惑星はたまに動かすだけで良い)、銀河的な視点からその位置関係を観想し、瞑想するだけなのだが、これがなかなか良い。以前からそういう瞑想はしていたのだが、実際の惑星配置(内惑星までは1兆分の1スケールでほぼ正確に表現されているらしい)が分かると、よりイメージし易くなる。
heliocompass 
私は、自分が実際に使ったり体験したりしてみて、「これはいい!」と思えたもの以外は、基本的に人に薦めることが出来ない性質である上、暦に関しては、これ以上別の何かを使いたいという意思も必要性も感じてはいなかった。「13の月の暦」は、私に十分な楽しみと発見をもたらし続けてくれているし、さらなる可能性も感じさせてくれる。しかし、今回のヘリオコンパスは、そういう状況の私であっても尚、「使ってみたいな」と思わせる何かがあった。

その「何か」を分析すれば、色々出て来るとは思うが、おそらくそこに一貫しているのは「美しさ」という事になるのではないかと思う。デザイン的に見える形としてのものだけではなく、その背後にある精神的な方向性や思想の深さも関係した「美しさ」。私のアンテナが反応するのは、どうもそういう要素があるものなのだと、振り返ってみて思う。逆に言えば、「13の月の暦」だって、そういうところが無かったら多分反応はしなかっただろう。

ヘリオコンパスは、太陽銀河的な空間意識を育む非常に有効なツールになると思う。また、ある期間分を少し早回しする感じで、ガイドブックP9にあるような螺旋運動をイメージ出来れば、意識の中に創造的なエネルギーを生み出せるようになるかもしれない。そう考えたのには訳がある。ガイドブックに感動した3日後、『自然は脈動する』のP116に、ガイドブックの螺旋図と殆ど同じ図を見つけ、その前後に以下のような文章を見出したからだ。
 
「現在の機械的な動きの形は必ずといっていいほど軸性→放射性であり、熱と摩擦を引き起こす。一方、自然のダイナミックなプロセスは、これまで見たように反対の種類の動きを用い、速度は周辺部でもっとも遅く、中心部で最も速くなる。」(P115より )「遠心的加速では、同じ速度を維持したり、さらに加速するのにいっそう多くの力が必要となる。求心的加速では、速度とエネルギーはひとりでに増加する。ヴィクトルはこれを、あらゆる生命を生みだす建設的エネルギーである「形成力」と呼んだ。」(P117より)
 
ちなみに、ガイドブックP9 には、太陽に近い惑星ほど速く運動している事が、具体的な数値で示されている。また、ヴィクトル(シャウベルガー)の思想については、過去記事の「渦巻き」も参考になるだろう。実は、ヘリオコンパス絡みのシンクロはまだ続くのだが、話の質がちょっと変わるので、ここでひとまず小休止を入れるとしよう。

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