2008年12月28日 23:49
■ 律動の月16日(G12/28) KIN54 白い月の魔法使い (by D)
KIN49(G12/23)の暦のクラスでは、「テレクトノン」という中級者向けサーフボード(と『時空のサーファー』巻末にホゼが書いている)について触れた。こよみ屋さん手帳P17にも登場するこの銀河文化ツールには、「あなたの惑星を救う、本当の時間の預言のゲーム」という副題が付いている。一つ前の記事が「予言」についてのものだったので、この機会に、こちらの「預言」についても少し書いておこう。
言うまでもなく「予言」と「預言」は意味が全く異なる。が、どうも混同している人が多いような気がする。「13の月の暦」と「マヤ暦」の違いをしつこい位に伝えても、刷り込みが解けずに「マヤ暦」と呼び続ける人がいる位だから、予言と預言の混同を気にしても、仕方が無いのかもしれない。辞書を引けば、「預言」は「神から預けられた言葉を人々に伝えること。また、その言葉」という意味であって、未来に関する推測とは、本来関係は無い。
だが、テレクトノンとも密接に関係する、新約聖書の「ヨハネの黙示録」を始め、予言的な預言も多数存在するので、おそらくその辺りから混同が生じているのだろう。実際、テレクトノンの中に含まれている「パカル・ヴォタンのテレクトノン」という小冊子にも、予言書のような趣がある事は否定出来ない。以下、全126節からなる本文より、適当に抜粋をしてみよう。
・いやま富と権力を蓄積するのも、公正に見える。時間を12ヶ月で数えるのも公正に見える。そして、13番目の月を迷信とさげすみの目で見ることも、公正に見える!税を徴収することと、その税を支払うことも公正に見える。王の権力のために戦争をすることも、公正に見える。生と死に対して金を払わなければならないことも、公正に見える(第55節より)
・家が燃えているとき、あなた方が私有財産に向かって急ぐことは、あなた方の生命を代償にするだけだ。燃えている家とは、バビロン、すなわち12:60の生活の仕方であり、それはいまやあなた方の生物圏を破壊し、あなた方の生命のあらゆるものを汚染している。あなた方の機械を愛撫することは、もう長引かせるな。これは、審判の日。もしあなた方が覚えておくことができるなら、この燃えている家から去り、よりよい道があなた方のためにすでに用意されていることを知るのだ(第102節より)
1990年代の初頭に書かれたこのテキストの(抜粋部分以外を含めた)ヴィジョンは、下手な予言者の予言より遥かに現状を言い当てているように感じられるが、これはあくまで預言であって予言ではない。それに、身の回りで起きている出来事に真に注意深くあれば、誰でも気付ける事と言えるだろう。クリスマスのニュースで、燃える家に携帯を取りに戻り、尊い命を落とした広島の高校生の事が報じられていたが、ちょうどクラスの準備時(つまり2,3日前)に上記テキストに目を通していた私には、この事故が、「一人の高校生の死」を超えた、深い何かを訴えかけているように感じられた。
預言は、それを聞いた人間が、受け止めたレベルに応じて現実に何をするかが、唯一意味ある事のように思える。ただ、騒いだりおののいたりするだけなら、巷を騒がす予言の類と何ら変わりはない。テレクトノンの預言は、ローカルでネイティブな立場から歴史を見直し、具体的な方法として、暦を替えることを提案するものであって、「こういう方向性で行きましょう」というヴィジョンを与えるもの、と理解した方が、無駄な混乱と誤解をせずに済むように思う。ちなみに、先の小冊子には、こんな一節もある。
・もしあなた方が手段と富を持っているなら、そしてあなた方がこれらの言葉を聞くなら、あるいはあなた方自身に12:60の時間の呪いと13:20の時間の祝福を説明するなら、そのとき、それを疑うことなく、慈善を行なうのだ。戦争によって孤児となった子供たちの暮らしを支え、地球の再構築に備えれば、芸術と文化の実践が再び花開くことだろう(第108節より)
私達がチベットサポートを始めたのは、全然別な経緯からであって、この一文に影響を受けた訳ではないのだが(こんな事が書いてあったとは、最近読み直すまですっかり忘れていた位)、結局、同じ方向性を持って活動していれば、同じような結論に至るという事だろう。ところで、私は、テレクトノンと『マヤン・ファクター』に、個人的にちょっとした思い入れがある。どちらも、シャンバラやカーラ・チャクラが深く関係しているだけでなく、マヤ遺跡の一つ、パレンケと深い繋がりがあるからだ。
私は『マヤン・ファクター』監訳者の滝元氏と、「赤い律動の月の年」の「赤い律動の月の日」(1999年4月12日)に、テレクトノンのモチーフともなっているパレンケの「碑銘の神殿」に登り、そこで、持参した英語版テレクトノンを実際にプレイしたという経験を持つ。『マヤン・ファクター』P371にある神殿の写真は、その時に撮影されたものだ。当時は、まだ誰でも墓室に入れたので、もちろん石棺も直接目にして来た。普段は遺跡に入るのに入場料を取られるのだが、オープンの時間になっても、チケットの束が麓の街から届かなかったか何かで、結局、無料で遺跡に入る事が出来た事を思い出す。
実は、『時間の法則の20の銘板』では、今、現在、この「律動の月」全体が、「赤い律動の月(KIN149)」と対応している。そういうタイミングに、テレクトノンについてのクラスを開催したり、ブログでこうした内容を伝えられる事は、スユア(時空の記憶回路)の活性化に参加させてもらっているような気がして、何だか嬉しい。『マヤン・ファクター』P128には、パレンケの「風の塔」とギザの「王の間」の類似性も指摘されているが、この春、エジプトに行って、「王の間」でかなり重要な発見をした事も、本書と現実の繋がりをさらに深めてくれたように思う。
言うまでもなく「予言」と「預言」は意味が全く異なる。が、どうも混同している人が多いような気がする。「13の月の暦」と「マヤ暦」の違いをしつこい位に伝えても、刷り込みが解けずに「マヤ暦」と呼び続ける人がいる位だから、予言と預言の混同を気にしても、仕方が無いのかもしれない。辞書を引けば、「預言」は「神から預けられた言葉を人々に伝えること。また、その言葉」という意味であって、未来に関する推測とは、本来関係は無い。
だが、テレクトノンとも密接に関係する、新約聖書の「ヨハネの黙示録」を始め、予言的な預言も多数存在するので、おそらくその辺りから混同が生じているのだろう。実際、テレクトノンの中に含まれている「パカル・ヴォタンのテレクトノン」という小冊子にも、予言書のような趣がある事は否定出来ない。以下、全126節からなる本文より、適当に抜粋をしてみよう。
・いやま富と権力を蓄積するのも、公正に見える。時間を12ヶ月で数えるのも公正に見える。そして、13番目の月を迷信とさげすみの目で見ることも、公正に見える!税を徴収することと、その税を支払うことも公正に見える。王の権力のために戦争をすることも、公正に見える。生と死に対して金を払わなければならないことも、公正に見える(第55節より)
・家が燃えているとき、あなた方が私有財産に向かって急ぐことは、あなた方の生命を代償にするだけだ。燃えている家とは、バビロン、すなわち12:60の生活の仕方であり、それはいまやあなた方の生物圏を破壊し、あなた方の生命のあらゆるものを汚染している。あなた方の機械を愛撫することは、もう長引かせるな。これは、審判の日。もしあなた方が覚えておくことができるなら、この燃えている家から去り、よりよい道があなた方のためにすでに用意されていることを知るのだ(第102節より)
1990年代の初頭に書かれたこのテキストの(抜粋部分以外を含めた)ヴィジョンは、下手な予言者の予言より遥かに現状を言い当てているように感じられるが、これはあくまで預言であって予言ではない。それに、身の回りで起きている出来事に真に注意深くあれば、誰でも気付ける事と言えるだろう。クリスマスのニュースで、燃える家に携帯を取りに戻り、尊い命を落とした広島の高校生の事が報じられていたが、ちょうどクラスの準備時(つまり2,3日前)に上記テキストに目を通していた私には、この事故が、「一人の高校生の死」を超えた、深い何かを訴えかけているように感じられた。
預言は、それを聞いた人間が、受け止めたレベルに応じて現実に何をするかが、唯一意味ある事のように思える。ただ、騒いだりおののいたりするだけなら、巷を騒がす予言の類と何ら変わりはない。テレクトノンの預言は、ローカルでネイティブな立場から歴史を見直し、具体的な方法として、暦を替えることを提案するものであって、「こういう方向性で行きましょう」というヴィジョンを与えるもの、と理解した方が、無駄な混乱と誤解をせずに済むように思う。ちなみに、先の小冊子には、こんな一節もある。
・もしあなた方が手段と富を持っているなら、そしてあなた方がこれらの言葉を聞くなら、あるいはあなた方自身に12:60の時間の呪いと13:20の時間の祝福を説明するなら、そのとき、それを疑うことなく、慈善を行なうのだ。戦争によって孤児となった子供たちの暮らしを支え、地球の再構築に備えれば、芸術と文化の実践が再び花開くことだろう(第108節より)
私達がチベットサポートを始めたのは、全然別な経緯からであって、この一文に影響を受けた訳ではないのだが(こんな事が書いてあったとは、最近読み直すまですっかり忘れていた位)、結局、同じ方向性を持って活動していれば、同じような結論に至るという事だろう。ところで、私は、テレクトノンと『マヤン・ファクター』に、個人的にちょっとした思い入れがある。どちらも、シャンバラやカーラ・チャクラが深く関係しているだけでなく、マヤ遺跡の一つ、パレンケと深い繋がりがあるからだ。
私は『マヤン・ファクター』監訳者の滝元氏と、「赤い律動の月の年」の「赤い律動の月の日」(1999年4月12日)に、テレクトノンのモチーフともなっているパレンケの「碑銘の神殿」に登り、そこで、持参した英語版テレクトノンを実際にプレイしたという経験を持つ。『マヤン・ファクター』P371にある神殿の写真は、その時に撮影されたものだ。当時は、まだ誰でも墓室に入れたので、もちろん石棺も直接目にして来た。普段は遺跡に入るのに入場料を取られるのだが、オープンの時間になっても、チケットの束が麓の街から届かなかったか何かで、結局、無料で遺跡に入る事が出来た事を思い出す。
実は、『時間の法則の20の銘板』では、今、現在、この「律動の月」全体が、「赤い律動の月(KIN149)」と対応している。そういうタイミングに、テレクトノンについてのクラスを開催したり、ブログでこうした内容を伝えられる事は、スユア(時空の記憶回路)の活性化に参加させてもらっているような気がして、何だか嬉しい。『マヤン・ファクター』P128には、パレンケの「風の塔」とギザの「王の間」の類似性も指摘されているが、この春、エジプトに行って、「王の間」でかなり重要な発見をした事も、本書と現実の繋がりをさらに深めてくれたように思う。
クラスの時、ネパールで入手したカーラ・チャクラのお香をお分けしたりするのも、上記のような諸々の繋がりがあるからで、チベット・サポートという側面だけでご紹介している訳ではないのだ。「13の月の暦」は、中米マヤに栄えた文化からのみ語られるものでは、決してない。銀河的な「預言のゲーム」をプレイするという事は、新しいリアリティを共同創造していく行為に、現実的に参加するという事であって、自己利益のための未来予知や危機回避とは、方向性が大きく異なるという事を、プレイヤーはよく知っておく必要があるだろう。
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