■律動の月14日 (G12/26) KIN157 赤い磁気の地球 (by D)
2009年もいよいよ終盤、間もなく2010年を迎えようとしている。「
2012年に世界が終わる」という映画をはじめ、様々なメディアでネタとして取り上げられる機会が増えた事もあって、一般にも「
マヤの予言」とか「マヤ暦」が広く(かつ相当誤解された形で)知られるようになった。だが、私は今、その手前の2011年に、ちょっとばかり注目している。
それはもちろん、私自身が
カール・コールマン博士の『
マヤ暦が終わるのは、2011年10月28日だった!』という、ダイレクト過ぎるタイトルが付いた本に関わったからでもあるが、実は、それに前後するタイミングで、面白いシンクロがあったのだ。話は、コールマン博士の本を翻訳された白川さんのお誕生日(電気の月18日=KIN77=G10/7)にまで遡る。台風18号が2年ぶりの本州上陸を果たしたこの日、私は近所の書店で、りんごの無農薬栽培で有名になった
木村秋則さんの『
すべては宇宙の采配』という本を手にし、一気に立ち読みしてしまった。
無農薬栽培に関しては、絶対不可能とされたマンゴーで既にそれを実現してしまった驚くべき人物(むしろその存在自体が驚異なのだが・・・)を直接知っていたこともあって、特別関心を抱く事は無かったのだが、上記の本には、冒頭から、時間感覚に対する非常に興味深い記述があり、思わず引き込まれてしまったのだった。中でも印象に残ったのは、複数回に渡る
異星人(子供くらいの背丈だとか)との遭遇シーン。
宇宙船に乗せられて・・・という話はそう珍しくないとして(それが全て事実かどうかはさておき)、地球の時間を計るカレンダー(その終わりが近付いているらしい)や1辺20センチ程の三角プレートを見せられた、という辺りに、私は何か感じるものがあった。また、この時、先にUFOに乗っていた白人女性が、テレビ番組の中でアブダクション体験の証言(UFOにはメガネの東洋人もいた)をしているのを木村さんが偶々目にした、というシンクロにも興味をそそられた。
それから6日後のKIN83(5・夜)、『
平行的な知覚に忍び寄る技術』が、翻訳をされた高橋徹さんから届けられた。青い表紙に独特な絵文字が描かれたこの本の「訳者まえがき」は、「夜見る夢は・・・」という一文から始まっている。「青い夜」のキーワード「夢見る」と完全にシンクロするタイミングに送って下さるところが、まさにカレンダー・シャーマンなのだが、著者のルハン・マトゥスもまた、
カルロス・カスタネダの系譜を継ぐ現代のシャーマンだとのこと。パラパラめくって、「これは深い・・」と直観しつつも、私は適当に開いたP102にあった以下の記述に引き付けられてしまった。
「この時点で、何か奇妙なことが起こった。私から記憶が盗まれてしまったのだ。私が前庭からどのようにして自分の家の居間にもどったかの記憶だ。私は自分がそこに立っているのを見つけた。そして、三人の存在が私の目の前に立っていた。彼らの身長は、七歳か八歳の人間のそれだった。しかし、彼らの顔の記憶は、不思議にも消されていた。私は真ん中の
異星人が長方形の箱を私に手渡したことを覚えていた。そして、彼がそれを開けたとき、何が箱の中にあったのかという記憶は、私の自覚的な意識からは消え去っていた。私は現段階で、情報の一部だけを回復できた。二〇一一年という年が私に残っていたのだ。私は、これが何か重要なことが起こるときだと仮定している。それは私にとっての個人的なことか、もしくは
異星人が世界に彼らの存在を明らかにするときかもしれない。」
木村さんの本は、出版されてから既に数ヶ月が経過していたが、私は期せずして、1週間というごく限られた期間にこの二つの情報に触れた事によって、
異星人と2011年というキーワードが、印象深く迫って来るのを感じてしまったのだった。さらに、木村さんの本を読んだのが、「2011年マヤ暦完了説」を唱えるコールマン博士の本の翻訳者のお誕生日だったり、私がその本の「監修者あとがき」を出版社に送ったのがKIN102で、上記のP102とシンクロしていたり、何かと2011と繋がる流れがあったことも注記しておきたい。
もっとも、”今”にエネルギーを注いでいる私にとっては、2011年でも
2012年でも「その時になりゃー分かる」というのが正直な感想で、(他のうわさ話同様)あれこれと騒ぐのは、マスコミの扇動にまんまと乗せられているようでアホらしいとしか思えない。ルハンの本は、これまで私が触れたこの手の本の中でも、最も難解な部類に属するもので、今も格闘している最中だが、「うわさ話が人生の大切な時間を浪費させ、エネルギー漏れを起こさせる」というような貴重な教えに満ちており、徹さんがまえがきで書かれている通り、辛抱強く読み進める必要性を強く感じている。
ルハンが伝えるトルテック(メキシコのシャーマン)の伝統には、ヒューレン博士のホ・オポノポノ(ハワイの伝統が土台にある)や、オルガ・カリティディのシベリア・シャーマンの話を彷彿させる要素が多々あり、私は同じルーツの何かがあるのではないか?と感じていたのだが、今日、P286、287に「アルタイ山脈から来た戦士のシャーマンが、老練なナワールであるおまえの恩人にこれらの動作を授けた」とか「われわれのシステムのルーツは、東洋の奥深くにあるんだよ」という記述を見つけ、驚きつつも、深く納得したのであった。ただ、これも「今にそれをどう活かすか」という視点が無ければ、ただのうわさ話とそう変わらないように思う。「うわさ話」の本質は、過去や未来に意識を散逸させる働きにある、と言っても良いのかもしれない。