鎌倉みちのく魔術紀行(3)

2015年08月28日 00:36

■月の月5日(G8/27)KIN146 白い電気の世界の橋渡し (by D)

宮沢賢治の誕生日は1896年8月27日(KIN131)。つまり、今日はその119周年に当たる。この「鎌倉みちのく魔術紀行」は、私の「運命の道筋」が、賢治の誕生キンであるKIN131(1・猿)になった事をきっかけにして書いて来ているものなので、賢治と四次元的に同期状態となった自分の誕生日(G8/12)の出来事について記すには、もってこいの日と言える。尚、KIN131は調波33の中にあり、今日は元旦から33日目に当たる。

当初、私は江ノ島と鎌倉のどちらから巡るかについて考えていた。結局、「青い磁気の猿」がドリームスペル旅程盤の西の端のウェイブスペルである事、ドリームスペルの動きは全て反時計回りである事、さらに、13年前の「1・橋渡し」の位置から見ると、新しい13年の始まりである「1・猿」は南西方向にあり、我が家から見て南西は、鎌倉より江ノ島方面である事等から、先に江ノ島に向う事にしたのだった。そうする事で、空間の移動と時間の動きを同期させる事が出来るように思えたからだ。

朝、二子玉川から中央林間に向かう電車の中で、高倉健(KIN234=ユング)の『あたなに褒められたくて』を読了。以前、善光寺に関するシンクロを発見した時に、北条家の血を引く健さんが鎌倉の東勝寺跡を訪れると、いつも特殊な変容状態に入ってしまうと書いていたのを思い出し、それを再確認したかったのと、放置したままになっていた後半1/4位を、この機会に読んでしまおうと思っていたのだ。

小田急に乗り換えて片瀬江ノ島に着いたのは、9時くらいだっただろうか。散策にちょうど良い曇り空だと思っていたら、次第に晴れて来て、気温も急に上昇し始めた。高校時代には部活で走って登っていた江島神社境内の階段も、ゆっくり登るだけで汗が吹き出して来る。宗像三女神を祭った、辺津宮、中津宮、奥津宮と順に参拝した後、個人的に最も関心があった岩屋に向かう。

一度登りきったところから、海岸まで急な階段を降りて行く。観光用に整備し直された岩場の洞窟(岩屋)は、私の記憶とは大分印象が異なっていたが、平成5年までは長らく閉鎖されていたようだから、きっと当時は外から眺めただけだったのだろう。江島神社は欽明天皇13年(552年)に、この岩屋から始まったとされていているが、その後も信仰の場として長く大切にされ続けてきたことが、洞窟内の雰囲気や石仏などから伺い知れる。
奥津宮★奥津宮の拝殿、北条氏の家紋「三つ鱗」が見える

天女と五頭龍伝説にちなんだちょっと安っぽい太鼓アトラクションのある第二洞窟まで巡った後、気持ちの良い海風が吹いている岩場をブラブラしてから、来た道を戻った。奥津宮には「八方睨みの亀」や「亀石」があり、途中の池にも生きた亀が何匹も居て、流石に「魔術の亀の日」だと感じる。島のあちこちでピーヒョロローと鳴きながら優雅に滑空するトンビ達にも出会った。
八方亀 ★八方睨みの亀

岩屋に意識を向けすぎていたのか、弁財天が祭られている場所を見逃していたので、確認しながら戻ると、辺津宮に八角形の弁天堂があった。しかし、改装工事中で、有名な二体の弁天像は社務所の一室に展示されているらしい。江ノ島に来た目的の一つは、弁天様にご挨拶することでもあったので、入場料を払ってその部屋に入ってみた。
亀石 ★亀の甲羅のように見える「亀石」

誰もいない部屋には、正座で参拝するよう注書きがされていて、弁天像に関する音声案内がリピートしている。しばし瞑想しながらそれを聴いていて驚いたのは、奥州の藤原秀衡調伏祈願のために 、源頼朝が文覚上人に命じて造らせたのが、鎌倉時代初期の作とされる八臂弁財天だという解説を耳にした時だった。ひとつ前の記事に書いた通り、5日前に届いた天野氏からのメールがきっかけとなって、私は奥州藤原氏について調べたばかり。弁財天像の1つがそういう由来の作品だったとは、初めて知った。

もう一方の妙音弁才天は、裸弁才天とも呼ばれる全裸体の珍しい像だが、こちらは教科書か何かで見た覚えがある。その後も、誰も入って来ないので、少しだけ立ち上がって近くで像を観させてもらったが、弁天堂が工事中でなかったら、こんな至近距離では見られなかったかもしれない。部屋から出ると、ちょうど次の参拝客がやって来た。

最後に辺津宮のおみくじを引いてみると、私は45(中吉)、Lは34(大吉)。KIN45は「6・蛇」、KIN34は「8・魔法使い」で、ドリームスペル神話では、いずれも失われた惑星マルデクの軌道に対応する。弁財天の奏でる琵琶が、銀河の五度和音を響かせるという事なのだろうか。また、その差11は、ホゼの誕生KIN&「青い猿」のコード番号であり、合計の79は「青い磁気の嵐」で、どちらも変容の西を示す。
トンビ 
お昼が近くなっていた事もあってか、朝はまだ人がまばらだった参道には人が溢れ返り、暑さもグッと増して来た。途中、コンビニで涼を取りながらでないと江の電の駅まで辿り着けなかったかもしれない。家の垣根スレスレを走る所は変わらず江の電らしかったが、床の油の臭いもあまりガタゴトいうことも無い新しい車両は、どうも味気ない気がした。鎌高前の様子もすっかり変わってしまっていたが、ホームの作りが古いままだったのには、ちょっとホッとさせられた。

しかし、日坂の踏切を通過する時に目にした光景には驚かされた。ネットニュースなどを通じて、海外からもスラムダンクの聖地巡りをするファンが押し寄せている事は知っていたが、実際に、あんなにカメラを構えている人々がいるとは思わなかった。30年前と変わらないもの、すっかり変わってしまったものの両方を感じながら、江の電に揺られて、私達は鎌倉駅に向かった。八方睨みの亀、八角形の弁天堂、八臂弁財天など「八」がやたらと来ているのは、持統天皇の頃からの流れだが、それはこのミニトリップの締めにも響いて来るはっきりとしたサインだった(つづく)。

鎌倉みちのく魔術紀行(2)

2015年08月25日 03:03

月の月2日(G8/24)KIN143 青い宇宙の夜(by D)

誕生日の過ごし方を決めたKIN122(G8/3)から4日後のKIN126(G8/7)に、『シンクロニック・ジャーニー』『マヤのリズム』『霊性のアート』の制作でお世話になった天野氏からメールが届いた。誕生KIN祝いのメールを送ろうと思っていたら先を取られてしまったのだが、その内容もまた、天野さんならではの興味深いものだった。

『13の月の暦』元旦(G7/26)に目にした「相馬の野馬追」の事、「前九年の役」や「後三年の役」といった奥州藤原氏に絡む話題(安倍氏という氏族も登場する)、映画『ダライ・ラマ14世の光石富士朗監督(私達は舞台挨拶された監督と上映後に少し話をさせて頂いている)と職場の先輩だった方の関係など、それぞれ異なる切り口ながら、どこか深いところで繋がっていると感じられる話題が綴られていた。

だが、それらの話題がよりリアルに迫って来たのは、そこからさらに4日後の8/11(KIN130)の事だった。その日、私はツイッターで以下のようなツイートをしている。

”パカル王の石棺が開封されたKIN123が、1952年11月27日だと判明してから、やたらめったら1127ナンバーの車を見るようになった。特に好まれる数の並びでも無いと思うのだが不思議な事だ。”

8/11は、自分の誕生日基準での「時間をはずした日」に当たり、それが今年はツォルキンの中心調波33(虚空コドン)のさらに中心、そして130日続いた「竜の創世記」と、13日続いた「鏡のウェイブスペル」の最終日であるKIN130と重なっていた。しかも、上記のKIN122(5・風)とKIN126(9・太陽)は、KIN130(13・犬)と4次元パルサーの関係でもある。

その夜、間もなく宮沢賢治(KIN131)の道筋に入る事を意識した私は、『雨ニモマケズ』(フォア文庫)を久々に手にし、テキトーに本をパッと開いてみた。すると、そこには「原体剣舞連(はらたいけんばいれん)」という初めて見る詩が掲載されていて、ページはP133だった。

そのまま読み進めると、次に登場したのは、その昔、教科書でも目にしたことがある「永訣の朝」だった。P135から始まっているその詩は、P137まで続き、最後にこの詩が1922年11月27日年の作である事が記されていた。

つまり賢治が夭逝した妹のために詠んだ「永訣の朝」は、パカルの石棺の蓋が開封されるぴったり30年前の作品だったということになる。だが、これも一週間前のG8/4(KIN123)に確認作業をしていなければ、分からなかった事だ。

驚きは「原体剣武連」にもある。この詩の中には「片刃の太刀をひらめかす 原体村の舞手たちよ」とか「こんや銀河と森とのまつり」「獅子の星座に散る火の雨の 消えてあとない天のがわら」...などの印象深いフレーズが続くのだが、ウィキペディアによると 《原体剣舞は踊り手の全てを子供達が演じ、その純真無垢の清らかさにより先祖の霊を鎮めようと伝えられてきた念仏踊り(鬼剣舞)の一種と思われる》と説明されている。

また、鬼剣舞(おにけんばい)は、岩手県北上市周辺に伝わる伝統芸能で、同じくWikiには《この踊りの独特の歩行に、修験道の鎮魂の呪術のひとつ「反閇(へんばい)」がある。陰陽道で用いられる呪術的歩行のひとつで、「大地を踏み悪魔を踏み鎮め、場の気を整えて清浄にする目的で行われる舞い」の要素と、念仏によって御霊や怨霊を往生させて災厄を防ぐ浄土教由来の信仰的要素が見られる》とも書かれている。

剣武天真流の蒼天支部道場長を務め、昨年からは、本部正師範にも任命されている私が、このタイミングに賢治の作品集から”剣”にまつわる詩に導かれるのは、やはり興味深い。しかも「魔術紀行(1)」にも書いた通り、賢治は、父や祖父(母方)が通った高校(旧制中学)の先輩にも当たり、実家にある卒業者名簿にも、その名が登場するのだ。

一方、父方の祖父は、父が子供の頃に他界したという事もあって、私も写真でしか見た事が無いのだが、その昔「剣舞」をしていたという話を、数年前の法事の時に、叔父や伯母から教えてもらって、驚いた事がある。そんな事実が、割と最近になって判明したのも、私が剣を学んだり、教えたりし始めたからに他ならない。

祖父がやっていた剣舞が「鬼剣舞」なのかどうかまでは分からないが、少し調べてみると、盛岡にもその流儀は伝わっていたようだから、もしかしたら関係があるのかもしれない。しかし、もう1つ驚かされたのは、鬼剣舞の装束についてWikiに書かれた、以下の一文だ。《紺地に白の竜胆(りんどう)模様(丸に笹竜胆紋 - 和賀氏(源氏)の家紋)の「胸当(むねあて)」》。笹竜胆は、私が通っていた中学校の校章でもあるし、鎌倉市の市章でもある。
源平池 ★中学への通学路でもあった源平池の蓮

そして、鬼剣舞が伝承されている地域は、時代こそ隔たっているものの、奥州藤原氏が治めていた土地と殆ど重なるのである。実際、剣舞に関する情報を追って行くと「奥州平泉・藤原氏初代清衡(きよひら)を悩ます亡魂を浄土へ導くさまを表現した舞い」と説明されている事が多いので、やはり関係はあるのだろう。

それにしても、天野氏(KIN126)を通じて注目するようになった奥州藤原氏と、賢治(KIN131)を通じて探求する事になった「剣舞」とが、このような形で繋がって来るとは、何とも思いがけない展開である。しかし、この一連のシンクロのお陰で、いまいち分かっていなかった奥州藤原氏の謎が少し解け、最終的には源頼朝に滅ぼされた事も再確認出来たのであった。

鎌倉みちのく魔術紀行(1)

2015年08月21日 01:39

磁気の月26日(G8/20)KIN139 青い太陽の嵐(by D)

「運命の道筋」が新しい13年サイクルへと入る(=銀河の音が1になる)年は、人生における「魔術飛行」が生じるという意味で、重要なターニングポイントの一つだと思う。これは、誰かに教わった知識で語っているのではなく、20年近く『13の月の暦』を使い続け、身近な人々を観察し続けて来た私自身の実感である。

それだけに、「ドリームスペル創世記」の観点から見ても最大の変換ポイントの一つと言える「青い磁気の猿」(KIN131)の道筋に入って行く事には、特別な思い入れがあった。加えて、KIN131は宮沢賢治の誕生キンだ。父や祖父、親戚達が卒業した高校(旧制中学)の先輩でもある賢治に、ある種の親近感と憧れを感じていた私は、自分達の活動名にも、賢治の『農民芸術概論』にインスピレーションを得た「時間芸術学校」の文字を入れている程だ。

そんな訳で、今年の誕生日の過ごし方については、結構真剣に検討していた。何事も「始め方」が肝要である事を、天真体道(剣や書、瞑想)の稽古や暦の体験を通じて、ひしひしと感じて来たからだ。おそらく、今生において、自分の心身の充実度が(総合的に)最も高まる期間でもあると思うので、そのスタートには大いなる魔法を掛けておきたい。

しかし、具体的に予定を決めたのは、誕生日を9日後に控えたKIN122(G8/3)になってからだった。どうしてそうしたのかは忘れてしまったが、私はまず、賢治と三陸地震の関係を再確認する事から始めた。パレンケでパカル王の墓が開封された1952年6月15日(KIN218)からぴったり56(7×8)年前の1896年6月15日(KIN58)、明治三陸地震が起こっている。賢治が生まれたのはその73日後、「赤い自己存在の月の年」の元旦(=KIN69)から33日目の8/27(KIN131)である。

一方、昭和三陸地震が起きたのは1933年3月3日(KIN199)。賢治が他界したのは、その年の9/21(KIN141)で、「黄色い律動の種の年」の元旦(=KIN84)から58日目に当たる日であった。パカル王やパレンケの「碑銘の神殿」に関する数字に詳しい方なら、ここから様々なサインが読み取れる事だろう。

しかし、わざわざお盆の大移動と重なる時期に、賢治の足跡を辿ってみちのく方面に向かうのは気が進まないし(行くなら別なタイミングを選ぶ)、万難排して訪れたくなるような場所も思いつかなかった。そこでふと浮かんだのが江の島だった。沖縄のカミンチュ外間先生(※)が「弁財天と縁がある」と伝えて下さったのを思い出したのだ。先生は私のぴったり1スピン前が誕生日なので、「運命の道筋」も常に私に先行する形で同期する事になる。ひと足先に賢治の道筋(1・猿)に入られた外間先生が、今、行くべき場所を思い出させて下さったのかもしれない。

(※)外間先生に関しては「おきなわ祈りの旅」シリーズに記してある

鎌高陸上部時代に、江の島の頂上まで登って帰って来るコースを何度か走った記憶はあるものの、江島神社をきちんと参拝した記憶は殆ど無いし、弁財天についても三大弁財天というのを耳にした事があるだけで、参拝した事があるのかどうかも分からない始末。外間先生からお話を伺った時に、「江の島の弁財天をお参りしなくては」と思ったのにも関わらず、実行に移せないまま時間が過ぎていた事、二子玉川からだと割と交通の便も良く、多少暑くても早めに出れば大丈夫だろうと思えた事で、誕生日巡礼の第一候補に江の島が躍り出たのだった。

だが、それを「決意」のレベルにまで変容させたのは、江の島の歴史を調べ直した時に判明した、以下の情報によるところが大きかった(以下、Wikiより抜粋引用)。

・文武天皇4年(700年)4月 - 役小角が江の島の岩屋に参籠し、以来、島全域が聖域として扱われた。
・弘仁5年(814年) - 伝承によれば空海が金窟(現・岩屋)に参拝し国土守護・万民救済を祈願、
社殿(岩屋本宮)を創建、神仏習合により金亀山与願寺(よがんじ)という寺院になったという。
・寿永元年(1182年) - 源頼朝の祈願により文覚が弁才天を勧請。
・文治元年(1185年) - 頼朝が弁才天(現・奥津宮)に鳥居を奉納。
・建久元年(1190年) - 北条時政、江の島に参籠、一族の繁栄を祈願する。
この時、龍神の残した3枚の鱗をもとに、北条氏・「三鱗」の家紋と定めた。
・弘安5年(1282年) - 一遍(いっぺん)鎌倉入りを拒まれ、江の島へ渡島したと伝える。
・1600年(慶長5年) - 徳川家康が参拝した。

縄文時代から人が住んでいた場所というのにも大いに刺激を受けたが、個人的に最もインパクトがあったのは、役小角が岩屋に参籠したという話だろう。【持統天皇と「八」の秘密】にも書いた通り、役行者とのシンクロは、ここ半年程ずっと続いているからだ。だが、空海もリアルタイムでビシバシ来ているし、頼朝は通っていた附属鎌倉中のすぐ隣で鎌倉幕府を開いた人物だし、文覚は洒水の滝を拓いた方だし、北条氏は高倉健からの繋がりがあるし(後述する予定)、時宗の宗祖である一遍は、かつて学んだ枇杷葉温圧療法とも関係が深い。という事で、「これは何としても江の島(特に岩屋)に行かなくては」と思ったのであった。
写真 ★江の島岩屋付近からの風景

また、江島神社の御祭神が、宗像三女神だと知った事も、その決意をより確かなものにさせた。何しろ、古事記においては、誓約において、天照御大神が須佐之男命の「十拳剣」を譲り受けて生んだ神々。仏教との習合によって、弁財天女とされ、江島弁財天として信仰されるに至り、 海の神、水の神の他に、幸福・財宝を招き、芸道上達の功徳を持つ神として、今日まで仰がれるようになった…とも公式サイトには書かれている。水に関する仕事をし、剣を教え、書を学ぶ私にとって、これ以上ぴったりな巡礼地はなかろう。

ところで、これら一連のメモを手帳に書込んだりツイートメモしたりした翌日のKIN123(G8/4)、帯広の時空のサーファーJさんが、以下のようなツイートを(私が江の島にチャンネルを合わせる前の)8/2の時点でしていた事に気付いた。

”今日、車の中でつけていたテレビから、ちびまる子ちゃんが「ミツウロコ、ミツウロコ」と連呼。普段、観てないので、なんだ?と思って観たらCMだった。「ミツウロコ」のマークは、江ノ島の弁才天の紋章や、宇宙図書館の入り口にある「勇気の紋章」と同じカタチの図形。”

Jさんは『シンクロニック・ジャーニー』P93に登場するKIN20の人物と同一人物だが、流石に私(KIN241)の「神秘のパートナー」(※)だけあって、いつも私を予期せぬ情報で驚かせてくれる。ちなみに、『シンクロニック・ジャーニー』にバックミンスター・フラーはKIN20と書いてしまったのは私の勘違いで、フラーの誕生キンはKIN240が正しい(お詫びと共にこの場で訂正させて頂く)。

(※)KIN番号の合計が261になるドリームスペル特有の組み合わせで、マヤ暦にそのような考え方や計算法は存在しない

G8/4がKIN123だった事で、私はパカル王の石棺が開いた日付について、やっと本気で探求する気になった。石棺の開封がKIN123だった事は、ホゼの資料にもよく出て来るのだが、それがG暦で何月何日に相当するのかは、(私の知る限り)邦訳資料のどこにも書かれておらず、推測の域を出ないままになっていたのだ。しかし、英語で検索すれば出て来るのではないか?と今ごろになって思い立ち、実行してみると、あっという間に確認出来てしまったのである。

先の三陸地震との関係もあるので、整理して書いておこう。パカルを埋葬した「碑銘の神殿」の墓室の扉が開いたのは、1952年6月15日(KIN218)。その後、遺体が眠っていた石棺の蓋が開封されたのは、同年11月27日(KIN123)。従って、今年の8/4で、開封88銀河スピンという事が判明した。

ちなみに、墓室開封から20年後の1972年6月15日はKIN238で、江島神社の住所「江の島2丁目3番8号」と数字の並びがシンクロする。「神秘のパートナー」であるKIN20のJさんが江の島について言及していた事、マヤの数学が20進法であった事、伊勢の式年遷宮が20年単位である事などがつらつらと思い出される。

本当はあともうちょっと書き進めてからひと区切りとしたかったが、そろそろ電池切れになって来たので、この記事を書いた日の出来事で、この「鎌倉みちのく魔術紀行」と密接に関係しているように思える、全国高校野球選手権大会決勝の結果だけメモして本稿を終えようと思う。

東海大相模、高校野球100年目の夏を制し45年ぶり2度目のV」。これが8/20(KIN139)に記録しておきたいニュースのタイトルである。決勝で素晴しい試合を見せてくれた東海大相模(神奈川)と仙台育英(宮城)は、私にとって、鎌倉幕府と奥州藤原氏(あるいはエミシ)とのせめぎ合いのようにも観えた。

前提となる情報がないと、すっ飛び過ぎた話に聞こえるだろうが、これから先、解き明かされて行く流れを見て頂ければ、それなりに共感してもらえるのではないかとも思う。一部だけメモしておくと、私が誕生日(G8/12)に江島神社で引いたおみくじは45で、かつて岩手県大会で優勝経験のある父が他界したのはKIN45であった(当時は県大会で優勝してもそのまま甲子園には行けない時代)。父の本籍地は岩手だったが、人生の半分以上は神奈川県人として過ごした。

さらに、東海大相模の住所は「相模原市南区相南3-33-1」、仙台育英は「仙台市宮城野区宮城野2-4-1」と「多賀城市高橋5-6-1」にある事が、今日分かった。鎌倉を含む相模国のエリアと、蝦夷との境界に当たる軍事拠点「多賀城」のエリアでの決勝。3331の鏡数字1333は鎌倉幕府が滅亡した年であり、241は、この一連の出来事に注目し、発見をし続けている私の誕生キンである。もちろん、そこに繋がりを見出すのは私の勝手な妄想かもしれないが、メモしている内容は全て事実である。

魔術活性化のドリームバンク333!(9/22開催のお知らせ)

2015年08月18日 17:01

磁気の月24日 (G8/18) KIN137 赤い共振の地球 (by DL)

【魔術活性化のドリームバンク333】開催のお知らせ!
2015年9月22日(火・祝)


魔術活性化のドリームバンク
(TIMESCORE© Miyokomiyoko & Kulika)

魔法使いの年がスタートしました!
3つ目の月、3日目、最初の魔術活性化の亀の日。
ここまで3が集まるのは一年でこの1日だけです。
3のパワーは活性化。
この1年の時間の全てをググーーーン!と活性化させる魔法をかけましょう!
さあ、準備は良いですか?!


「ドリームバンク」ワークショップでは、夢の実現場(ドリームバンク)にアクセスし活用してゆくための技(ワザ)を皆さまと共有し、お一人お一人が銀河種として咲き誇るためのエネルギーをセットしてゆきます。初めての方も大歓迎。16名限定先着順の受付です。

ナビゲーターは小原大典&小原蘭禅。
当日まで、何が飛び出すかわからない旬のシンクロサプライズもお楽しみに!
もちろん、チベットの伝統に従って、一口福スイーツもご用意させて頂きます。
ビビビ!と来られた方のご参加をお待ちしています。

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【魔術活性化のドリームバンク333】

日時:G2015年9月22日(火・祝)13:20~16:20 
場所:東京/九品仏 東急大井町線/九品仏駅より徒歩5分
 お申込の方に詳しい地図をご案内いたします。
参加費:3,300円
定員:16名(先着順)

お申込手順:
下記3項目をご記入の上、メール(←クリック)にてお申込下さい。
その際、メールのタイトルを【ドリームバンク】とご明記ください。
追ってこちらから詳細案内のメールをご返送いたします。

【お名前】
【〒ご住所】
【お電話(携帯)番号】

*お寄せ頂いた個人情報はいかなる場合においても外部へ漏らす事はございません。
*敏速な返信を心がけておりますが、通信事情等により、ごくまれにメールが届かないケースがございます。
お申込をお送り頂いた後、2日間経ってもこちらから返信が届かない場合は、
大変お手数ですが、再度メールをお送り頂けますようお願いいたします。
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<お願いとご注意>
@yahoo、@ezweb、のアドレスからクリカにメールをお送り頂く場合、残念ながらこちらに届かないケースが多々ございます。恐れ入りますが、できるだけ他のアドレスからお送り頂けると幸いです。
また、メ-ルの設定は、必ずこちらからの返信メ-ルが届く設定にしておいて頂けますようお願いします。(特に携帯メールと@yahoo.co.jp、@ezwebをお使いの方。)


パカル王の石棺開封から88銀河スピン

2015年08月04日 23:21

■磁気の月10日(G8/4)KIN123 青い律動の夜(by D)

13の月の暦』の365日暦で、毎月13日までを1日=1バクトゥンと置き換えて見る『テレクトノン』のやり方に従えば、今日10日はマヤが最も栄えたバクトゥン9に対応する。一方、260日暦のKIN123は、パカル王の遺体が眠っていた石棺の蓋が開いた日と言われている。

しかし、ホゼの来日講演録や邦訳書には、KIN123とあるだけでG暦の日付が無い(もしかしたら調べが足りないだけかもしれない)。パレンケ碑銘の神殿」において、パカル王の墓室が発見された日付は、1952年6月15日(KIN218)とハッキリしているので、普通に考えれば、その年の7月以降でそこから最も近いKIN123を辿れば良いという事になる。

すると1952年11月27日になるはずなのだが、日本語だけで検索すると、検証できる情報が出て来ない。それで、今更ながら英語でも調べてみると、やはり石棺の蓋が開いたのは、1952年11月27日(KIN123)である事が分かった。
石棺 ★1999年4月12日(KIN149)に撮影した石棺

英語で検索すると、スペイン語のサイトも含め複数のものが出て来るので、関心のある方は、各自検証して頂ければと思う。その中には、時間の法則財団のPDF資料も入っていて、KIN123が1952年11月27日であることは、ちゃんと書かれていた(アルベルト・ルスの言葉を使って)。

そこで、改めてこの事に意識が向いた今日までに、ツォルキンが一体何回巡ったのかを計算してみると、ぴったり88回巡った日であることが判明した。最近、【金星・空海・キトラ古墳】にも書いたように、88という数字が盛んに訴えて来ているので、これを知って、「今更ながら」という感じから、「今だからこそ」という感覚に切り替わった。

今までにも何度も気になりながら、結局、本気で追求しようとして来なかったのは、「今日調べると、きっと自分にとって一番面白いからだろう」というのが、私の身勝手な解釈である。つまり、私にとっては、88銀河スピンが完了した今が、時空からこの情報を発掘するのに最も相応しいタイミングだったと実感している訳だ。

ここで、88回巡ったというツォルキンの数え方について、少しメモしておきたい。もし、これを(石碑等に残る長期暦と連動した)マヤ暦のツォルキン(260日暦)に従って計算すれば、1952年11月27日と今日の日付は、全く違ったものになる。具体的に書こう。

1952年11月27日=9イミシュ(13暦的に表現するとKIN61)
2015年8月4日 =11キブ(13暦的に表現するとKIN76)

この現象を理解するには、グレゴリオ暦(G暦)との関係性について考える必要がある。古代であろうと現代であろうと、メソアメリカで使われて来たマヤ暦は、グレゴリオ暦の事など全く考慮していないし、する必要も無いので、G暦での閏日にも一切関係なく日付を数え続けて行く。

一方、『13の月の暦ドリームスペル)』のツォルキンは、グレゴリオ暦に対しての関係が崩れないよう、2/29を2/28の延長として数える。なぜなら、この暦は主に、物質主義的傾向を促す周波数を持つグレゴリオ暦からのシフトを意図しているからである。巷に流布している偽マヤ暦情報は、こういう所にほころびがある。

偽マヤ暦を語る人々は、『13の月の暦ドリームスペル)』からツォルキンの部分だけを独立させて扱おうとするが、それは土台無理というものなのだ。上記の通り、G暦閏日におけるツォルキンのカウント方法を見れば、それがマヤ暦では絶対にやらない、非常にイレギュラーな手法であることがハッキリするからだ。

運命が決まっていると考え、占いや鑑定をするのなら、この閏日処理の扱いにどういう意味を持たせるのだろうか。『13の月の暦ドリームスペル)』のように明確な目的を持たずに、閏日の時にツォルキンを2日続けて数える(あるいは一日休む)のだとしたら、一体何のためにそうするのだろうか。最初に誤摩化すと、結局のところ、誤摩化しの上塗りしか出来なくなるものなのだ。
宮殿 ★「碑銘の神殿」トップより「風の宮殿」を見る

「白い魔法使い」からのサイン】という記事にも書いた通り、今年はパカル王の「墓室」が開封されたG6/15にも、興味深いサイクル上のシンクロがあったが、もちろんこれも『13の月の暦ドリームスペル)』のツォルキンでないと、話の辻褄は全く合わなくなる。

何か新しい情報に出会った時は、まず、その出所をよく調べる事だ。新しいもの、珍しいものに何でも見境なく飛びつき、ロクに検証もせずに拡散しまくる人に、心から信頼できる人などいない。もちろん、私を含め、誰だって間違いは犯すものだが、多少なりとも注意深さがあれば(ほんのワンステップだけでも踏み込んで調べれば)、しょーもない情報にいちいち踊らされたり、無駄な出費をしたりせずに済むはずだ。

と、色々エラそう書いている私も、長いことずーっと勘違いしていた、なんて事はザラにある。だから、この文章は、自分自身への戒めとして書いているものでもあるのだ。

例えば、『銀河のマヤ、聖なる時の秘密』の中でも、私はパカル王の誕生KINについて、マヤ長期暦と連動したツォルキンでの誕生日(上記の石棺に刻まれたもの)と、『13の月の暦ドリームスペル)』のツォルキンで計算した誕生日とが異なる事を、具体的に例示している。

しかし、その事(2つの違い)に気付いたのは、『13の月の暦』を使い始めて15年以上も経ってからの話で、それまでは、パカル王の誕生日と言えばKIN60(8・太陽)というように、ホゼが書いていた情報をそのまま鵜呑みにしていたのだ。

その背後には、「その分野に詳しい人(権威)が言っているのだから間違いないだろう」という依存と、「何か変だぞ?」という所を面倒くさがって調べず放置した怠慢と、「本気で知りたい!」という熱意の無さが、横たわっていたのだと思う(自ら省みるに)。

巷で『13の月の暦(ドリームスペル)』を一部引用した”偽マヤ暦”が、マヤ暦として伝わってしまっているのも、きっと、それを扱う一人一人の中に、そういう無意識的で無自覚な「依存、怠慢、無気力」みたいなものが、あるからではないだろうか。

とは言え、せめて「自分が教わった事は間違っているかもしれない」という見方と、間違いがハッキリした時には直ちに修正するという心がけは、忘れないようにしていたい。ものの見方がフィックスされてしまった人は、その土台からしか物事を見られなくなってしまう。

だから、上記のような具体的情報を知っても尚、「マヤ暦」と連呼する人々もいれば、どうにか前に得た知識を無駄にしないように、と苦しまぎれな折衷案を編み出してゴマカし続ける人々もいる。それは各人の自由だが、どこかをゴマカしている内は、そういうバイブレーションが滲み出てしまうものなのだ。

最後におまけで、太陽黒点相対数の基準が、今年のG7/1(KIN89)に変わったという事をメモしておこう。今、気付いたが、これも古い基準はKIN88までであった事を示している。そして、KIN89はホゼが別な次元へと旅立ったKINでもある。『マヤン・ファクター』を通じて、新しい太陽紀の到来を予見した人物と直接的に繋がりのある日付だけに、大変興味深いシンクロだと思う。

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