2015年10月21日 17:18
■自己存在の月4日(G10/21)KIN201 赤い律動の竜(by D)
先の連休は、3日間とも関西で過ごした。10/10(KIN190)は、大阪市中央体育館で「剣武天真流大阪ワークショップ」。10/11(KIN191)は、天真書法塾の道友・宮野玄妙さんの個展会場(神戸TEN×TEN)にて「祝いの剣武」。そして最終12日(KIN192)は、姫路城と書寫山圓教寺を訪れていた。その後も密度の濃い日々が続いて、気付いた時には1週間が経過していた。
「百聞は一見に如かず」という事で、大阪と神戸の様子については、天真会のFBページに公開されているアルバム(上記タイトルにリンクが貼ってある)や動画(←クリック)を観て頂くとして、ここでは姫路での出来事、特に圓教寺での体験について記しておきたいと思う。
今回姫路行きを決めたのには、いくつかの理由があった。もちろん、せっかく神戸まで行くのならという前提もあっての事だが、第一の理由は、圓教寺の大樹玄承さんにお会いしてみたい、というものであった。2008年のブログ「ラストサムライのいる寺」に書いた通り、大樹さんは、仏教者としての誠意から、北京五輪を間近に控えたタイミングでチベット問題に真正面から触れられた勇気ある僧侶である。
関西のチベットサポーターが集う場としても知られる大阪の「チャクラ」さんで、私が暦や天真体道のクラスを長年やらせて頂いている関係で、チャクラのタッちゃんやアッちゃんからも大樹さんについて聞く事があったし、最近FBでご本人と繋がった事もあって(Lはもっと前からFB友達だったが)、いつかお目にかかりたいと思っていたのだ。
一方、Lは年末(G11/27〜29)に表参道で行われる天真書法塾の発表会に向けて、大燈国師の遺偈を作品にすべく制作を進めていた。大燈国師こと宗峰妙超が播磨の生まれで、地元の大寺院である圓教寺で11才から学んでいた事を知った彼女は「今でしょ!」と、今回の姫路行きを決めたのだった。
もう1つ書いておくと、映画『ラストサムライ』のロケ地だと知った事で、「いつか剣武の奉納演武が出来ないだろうか?」という思いが浮かんで、実際にその場を観ておきたいという気持ちもあった。圓教寺のFBページをフォローし始めて間もなく、地元の方々による奉納演武の様子がUPされたのを目にしたり、8月末に訪れたチャクラで、知人が1泊2日のワークショップを圓教寺で行うという話を耳にしたりしたシンクロも無関係ではない。
そういえば、8月末のチャクラでは、私の暦のクラスとリンクする形で、キンちゃんこと金城裕子さんのライブが行われたのだが、その金ちゃんは、今回の剣武大阪ワークショップに参加してくれただけでなく、青木先生の閃きに応じて、忙しい中、神戸での(玄妙さんの個展開催に対する)祝いの場にも駆けつけて、素晴しい歌声を披露してくれたのだった(上記動画のラストにも登場している)。
しかし、考えてみれば、私達がNPOクリカとしてチベットサポート活動をし始めたのも、天真会(青木先生が代表)から大きな支援を頂いた事が一つのきっかけであった訳だし、その後も、様々な形で応援して頂いているのだから、今回のこの繋がりは、ある面「チベットサポートの輪」によって生じたものだとも言えよう。
訪問日が近くなった時点で大樹さんに確認を取ってみたら、残念ながら、その日は西国札所会の研修会で留守にされているとの事。私達も今回は日程変更できる状況では無かったので、大樹さんへのご挨拶はまたの機会に改めさせて頂く事にして、まず圓教寺に伺ってみる事にした。
12日(KIN192)は朝から見事な秋晴れで、姫路駅前の大通りから見えるお城は、まさに「白鷺」の名に相応しい輝きを放っていた。このお天気と、ホテルで入手した姫路の観光パンフに「姫路城大天守登閣整理券」が1日15,000枚までと書いてあったのを目にして(しかも何故か5000枚と見間違えて)、「これは先にお城に行った方が良いのでは?」と予定を急変更(これが全く配慮に欠けた行動であった事を後で恥じ入る事になる)。
実は、私自身は「銀河の同期」を目前に控えた2013年の4月にも、シンクロに導かれて(「式年三ツ山大祭で虹の輪を見る」参照)姫路城を訪れているのだが、その時は修復の真っ最中で、中に入る事はおろか天守閣を仰ぎ見る事も出来なかったので、今回はぜひ天守閣に、という思いがあった。加えて、Lは初姫路。蒼天に浮かぶ白鷺城を目にしたら、観光客で溢れる前に観ておこう、という気持ちに自然となる。
幸い、殆ど並ぶことも無くじっくり観て回ることが出来たのだが、巨大な柱や梁を目にする度、「一体どうやってこんな巨木をこの高さまで持ち上げ、組むことが出来たのだろう」と木造建築の見事さに感嘆するのと同時に、「何故、この素晴しい木造建築文化を発展させる方向にもっと力を入れないのだろうか」と、短期的な経済効率ばかりを追求する現代日本の方向性に、疑問と憤りを感じたりもしていた。
天守閣の公開と共にパンフレットも刷新されたようで、以前書かれていた「場内59種122個の刻印」や、呪術的な意味を持つという「鏡石」についての記述等は省かれていた。見方を変えれば、2013年訪問時は、天守閣が修復中だったお陰で、そうした魔術的情報に注目する事が出来たとも言えよう(※1)。門は常に開いている訳ではないのだ。
ひとしきり城を巡った後で、スマホ充電のために商店街のカフェに寄り、手早くお昼を済ませられそうな店を探す。カフェの向いにあるスポーツ店の看板に、18番のユニフォームを着た選手が見えているのに気付いた後で、評判の良いラーメン店「麺哲」を発見。その住所が呉服町18で、カフェからも至近だったので迷わず移動(もちろん鏡石も意識した)。確かになかなかの美味しさだった。
大通りに出た所で運良く書写山行きのバスが通りがかったので、飛び乗ってロープウェイ乗り場がある終点まで揺られること30分余り。ロープウェイ山上駅付近からは、姫路市内だけでなく瀬戸内海までが見渡せる。さすがに四国は霞んでいたが、前日までの数日間は市内も見えないほど真っ白だったらしいから、この眺望を体験できただけでありがたい。仁王門をくぐり、巨木に囲まれた参道を進むうち、この名刹の規模が想像以上に大きい事を実感した。
「拝観受付並びに本坊事務所へ声掛けくださいませ」という大樹さんからのメッセージと、入口で受け取ったパンフを頼りに事務所を訪ねてみると、「午前中にいらっしゃると聞いていました。案内の者が待機しておりますので、本殿(摩尼殿)の方へお寄り下さい」と言われる。確かに、大樹さんへの最初のメッセージに「12日朝に書写山に参る予定」と書いていたが、その後のやりとりの中ですっかり失念し、上記のように予定を急変更して姫路城に先に行ってしまったのである。
当方としては、実際に訪れた事が分かるよう、ご挨拶の品だけお渡し出来ればと思っていたので、大樹さんにもお寺にも特に連絡は入れずに予定を変更してしまったのだが、わざわざ案内の方を手配して下さっていたとは知らず(そういうお心遣いを察する事が出来ず)、大変申し訳ないことをしてしまった。猛省しながら摩尼殿に向うと、大きな日の丸が入口の柱に2つ、その奥にチベット国旗が掲げられているのが目に留まった。
かなりチベットサポートに積極的な寺社でも、チベットの旗を境内に掲げている所は中々見かけないし、日本国旗だって旗日だったからこそ、こんなに目立つ場所に掲げられているのだろう。しかも圓教寺は西国三十三観音霊場の第27番。私達が「時間芸術学校クリカ」という名で活動を始めたのは、観音菩薩の化身とされるダライ・ラマ法王14世による27回目のカーラチャクラ灌頂(オーストリア・グラーツ)に参加した事がきっかけでもあったから(※2)、この数字と旗のシンクロには、何とも言えない嬉しさを感じた。
姫路城大天守の一般公開が始まったのも、平成27年3月27日からとの事なので、「27」は今回のミニトリップのキーナンバーだったとも言える。それはさておき、摩尼殿で待っていて下さった村岡さんには、大変お世話になった。私達の勝手な予定変更でご迷惑をおかけしてしまった張本人であるにも関わらず、境内の各所を一緒に巡りながら圓教寺の歴史や背景について、実に丁寧に教えて下さった。この場を借りて、改めて御礼申し上げる次第である。
普段は入ることの出来ない場所等にも案内していただきながら、色々と興味深いお話を聞かせて下さったのだが、ここでは、個人的に印象に残ったことをいくつかメモするに留めておきたい(既に随分長くなっているので)。まず、書寫山の「書寫(しょしゃ)」は、スサノオのスサに由来するという話で、かつて素戔嗚尊が降り立たれたという言い伝えに因んでいるとのこと。書寫山そのものが磐座で、10世紀に性空上人が入山される前から霊山として知られていたようである。
天下泰平・五穀豊穣を祈る年頭の行事「鬼追い会式(修正会)」は、不動明王の化身とされる青鬼と毘沙門天の化身とされる赤鬼が鬼踊りをするもので、千年に渡って継承されて来たという。もともとは旧暦1/18に行われていたのが、現在はG暦1/18に行われるようになったとの事だが、ここでも18が登場したのは興味深い。思えば、18も27も「9」の倍数だ。出雲に続く国道が9号で、スサノオが出雲の地で八岐大蛇を退治した時に、その尾から出て来たのが「三種の神器」のひとつ「草薙剣」であった事が、自然と思い出される。
それにしても、流石にメディアに顔を出してチベット人の苦しみを訴えられた僧侶の居るお寺である。摩尼殿だけでなく、奥の院に当たる「開山堂」にもチベット旗が掲げられていたのには感動した。もちろん、『ラストサムライ』や『軍師官兵衛』等に使われた「三つの堂」(大講堂・食堂・常行堂)のエリアも印象深いものがあったし、樹齢900年というご神木にも心打たれるものがあったが、伝統を重んじる古刹にあってチベット旗を掲げるのは、そう簡単な事では無いとも思う。しかし、だからこそ、そこに仏教者としての心意気を感じるし、チベットの人々にこの事が伝われば、彼らを勇気づける事にもなるに違いない。
お忙しい中、時間を割いてご案内下さった村岡さんの誕生キンはKIN140(10・太陽)。圓教寺の現住職は大樹玄承さんのお父様が第140世として継がれているというから、今回はKIN14のダライ・ラマ法王14世と、(現れを仕上げる)「10・魔法使いの年」シンクロで、村岡さんとお会いする事になったのかもしれない。
最後に余談を少し。10/10(KIN190)の朝、私はのぞみ201号13号車7Cという席で新大阪に向かっていた。先に大阪入りされていた先生方とはホテルのロビーで落ち合う事になっていて、他の剣武本部師範がどの交通手段で大阪に向かうのかについては、互いに全く知らないままであった。だが、私と同じ車両の同じ列の3つ後ろに、S師範が座っているのを途中で発見し、ロビーに数十秒遅れで到着したM師範も、実は同じのぞみ201号に乗っていた事が後で判明した。それで、このブログも何とかKIN201のうちにUPしたいと思ったのである。こうして「時の輪(カーラチャクラ)」は巡るのだと感じながら。
(※1)姫路城はドリームスペル(13の月の暦)との繋がりも深い。姫路城が世界遺産に登録された1993年は『テレクトノン』の預言の7年の始まりにシンクロしており、私達が訪問した「電気の月23日」は『テレクトノン』での「銀河の同期」に対応していた。
(※2)グラーツのカーラチャクラは2002年10月21日(KIN136)、つまり本ブログをUPした日付のぴったり13年前に灌頂が完了した。そして翌KIN137に法王の長寿の灌頂が終わった時、空には虹が架かったのだった。
先の連休は、3日間とも関西で過ごした。10/10(KIN190)は、大阪市中央体育館で「剣武天真流大阪ワークショップ」。10/11(KIN191)は、天真書法塾の道友・宮野玄妙さんの個展会場(神戸TEN×TEN)にて「祝いの剣武」。そして最終12日(KIN192)は、姫路城と書寫山圓教寺を訪れていた。その後も密度の濃い日々が続いて、気付いた時には1週間が経過していた。
「百聞は一見に如かず」という事で、大阪と神戸の様子については、天真会のFBページに公開されているアルバム(上記タイトルにリンクが貼ってある)や動画(←クリック)を観て頂くとして、ここでは姫路での出来事、特に圓教寺での体験について記しておきたいと思う。
今回姫路行きを決めたのには、いくつかの理由があった。もちろん、せっかく神戸まで行くのならという前提もあっての事だが、第一の理由は、圓教寺の大樹玄承さんにお会いしてみたい、というものであった。2008年のブログ「ラストサムライのいる寺」に書いた通り、大樹さんは、仏教者としての誠意から、北京五輪を間近に控えたタイミングでチベット問題に真正面から触れられた勇気ある僧侶である。
関西のチベットサポーターが集う場としても知られる大阪の「チャクラ」さんで、私が暦や天真体道のクラスを長年やらせて頂いている関係で、チャクラのタッちゃんやアッちゃんからも大樹さんについて聞く事があったし、最近FBでご本人と繋がった事もあって(Lはもっと前からFB友達だったが)、いつかお目にかかりたいと思っていたのだ。
一方、Lは年末(G11/27〜29)に表参道で行われる天真書法塾の発表会に向けて、大燈国師の遺偈を作品にすべく制作を進めていた。大燈国師こと宗峰妙超が播磨の生まれで、地元の大寺院である圓教寺で11才から学んでいた事を知った彼女は「今でしょ!」と、今回の姫路行きを決めたのだった。
もう1つ書いておくと、映画『ラストサムライ』のロケ地だと知った事で、「いつか剣武の奉納演武が出来ないだろうか?」という思いが浮かんで、実際にその場を観ておきたいという気持ちもあった。圓教寺のFBページをフォローし始めて間もなく、地元の方々による奉納演武の様子がUPされたのを目にしたり、8月末に訪れたチャクラで、知人が1泊2日のワークショップを圓教寺で行うという話を耳にしたりしたシンクロも無関係ではない。
そういえば、8月末のチャクラでは、私の暦のクラスとリンクする形で、キンちゃんこと金城裕子さんのライブが行われたのだが、その金ちゃんは、今回の剣武大阪ワークショップに参加してくれただけでなく、青木先生の閃きに応じて、忙しい中、神戸での(玄妙さんの個展開催に対する)祝いの場にも駆けつけて、素晴しい歌声を披露してくれたのだった(上記動画のラストにも登場している)。
しかし、考えてみれば、私達がNPOクリカとしてチベットサポート活動をし始めたのも、天真会(青木先生が代表)から大きな支援を頂いた事が一つのきっかけであった訳だし、その後も、様々な形で応援して頂いているのだから、今回のこの繋がりは、ある面「チベットサポートの輪」によって生じたものだとも言えよう。
訪問日が近くなった時点で大樹さんに確認を取ってみたら、残念ながら、その日は西国札所会の研修会で留守にされているとの事。私達も今回は日程変更できる状況では無かったので、大樹さんへのご挨拶はまたの機会に改めさせて頂く事にして、まず圓教寺に伺ってみる事にした。
12日(KIN192)は朝から見事な秋晴れで、姫路駅前の大通りから見えるお城は、まさに「白鷺」の名に相応しい輝きを放っていた。このお天気と、ホテルで入手した姫路の観光パンフに「姫路城大天守登閣整理券」が1日15,000枚までと書いてあったのを目にして(しかも何故か5000枚と見間違えて)、「これは先にお城に行った方が良いのでは?」と予定を急変更(これが全く配慮に欠けた行動であった事を後で恥じ入る事になる)。
実は、私自身は「銀河の同期」を目前に控えた2013年の4月にも、シンクロに導かれて(「式年三ツ山大祭で虹の輪を見る」参照)姫路城を訪れているのだが、その時は修復の真っ最中で、中に入る事はおろか天守閣を仰ぎ見る事も出来なかったので、今回はぜひ天守閣に、という思いがあった。加えて、Lは初姫路。蒼天に浮かぶ白鷺城を目にしたら、観光客で溢れる前に観ておこう、という気持ちに自然となる。

幸い、殆ど並ぶことも無くじっくり観て回ることが出来たのだが、巨大な柱や梁を目にする度、「一体どうやってこんな巨木をこの高さまで持ち上げ、組むことが出来たのだろう」と木造建築の見事さに感嘆するのと同時に、「何故、この素晴しい木造建築文化を発展させる方向にもっと力を入れないのだろうか」と、短期的な経済効率ばかりを追求する現代日本の方向性に、疑問と憤りを感じたりもしていた。

天守閣の公開と共にパンフレットも刷新されたようで、以前書かれていた「場内59種122個の刻印」や、呪術的な意味を持つという「鏡石」についての記述等は省かれていた。見方を変えれば、2013年訪問時は、天守閣が修復中だったお陰で、そうした魔術的情報に注目する事が出来たとも言えよう(※1)。門は常に開いている訳ではないのだ。
ひとしきり城を巡った後で、スマホ充電のために商店街のカフェに寄り、手早くお昼を済ませられそうな店を探す。カフェの向いにあるスポーツ店の看板に、18番のユニフォームを着た選手が見えているのに気付いた後で、評判の良いラーメン店「麺哲」を発見。その住所が呉服町18で、カフェからも至近だったので迷わず移動(もちろん鏡石も意識した)。確かになかなかの美味しさだった。
大通りに出た所で運良く書写山行きのバスが通りがかったので、飛び乗ってロープウェイ乗り場がある終点まで揺られること30分余り。ロープウェイ山上駅付近からは、姫路市内だけでなく瀬戸内海までが見渡せる。さすがに四国は霞んでいたが、前日までの数日間は市内も見えないほど真っ白だったらしいから、この眺望を体験できただけでありがたい。仁王門をくぐり、巨木に囲まれた参道を進むうち、この名刹の規模が想像以上に大きい事を実感した。
「拝観受付並びに本坊事務所へ声掛けくださいませ」という大樹さんからのメッセージと、入口で受け取ったパンフを頼りに事務所を訪ねてみると、「午前中にいらっしゃると聞いていました。案内の者が待機しておりますので、本殿(摩尼殿)の方へお寄り下さい」と言われる。確かに、大樹さんへの最初のメッセージに「12日朝に書写山に参る予定」と書いていたが、その後のやりとりの中ですっかり失念し、上記のように予定を急変更して姫路城に先に行ってしまったのである。
当方としては、実際に訪れた事が分かるよう、ご挨拶の品だけお渡し出来ればと思っていたので、大樹さんにもお寺にも特に連絡は入れずに予定を変更してしまったのだが、わざわざ案内の方を手配して下さっていたとは知らず(そういうお心遣いを察する事が出来ず)、大変申し訳ないことをしてしまった。猛省しながら摩尼殿に向うと、大きな日の丸が入口の柱に2つ、その奥にチベット国旗が掲げられているのが目に留まった。

かなりチベットサポートに積極的な寺社でも、チベットの旗を境内に掲げている所は中々見かけないし、日本国旗だって旗日だったからこそ、こんなに目立つ場所に掲げられているのだろう。しかも圓教寺は西国三十三観音霊場の第27番。私達が「時間芸術学校クリカ」という名で活動を始めたのは、観音菩薩の化身とされるダライ・ラマ法王14世による27回目のカーラチャクラ灌頂(オーストリア・グラーツ)に参加した事がきっかけでもあったから(※2)、この数字と旗のシンクロには、何とも言えない嬉しさを感じた。

姫路城大天守の一般公開が始まったのも、平成27年3月27日からとの事なので、「27」は今回のミニトリップのキーナンバーだったとも言える。それはさておき、摩尼殿で待っていて下さった村岡さんには、大変お世話になった。私達の勝手な予定変更でご迷惑をおかけしてしまった張本人であるにも関わらず、境内の各所を一緒に巡りながら圓教寺の歴史や背景について、実に丁寧に教えて下さった。この場を借りて、改めて御礼申し上げる次第である。
普段は入ることの出来ない場所等にも案内していただきながら、色々と興味深いお話を聞かせて下さったのだが、ここでは、個人的に印象に残ったことをいくつかメモするに留めておきたい(既に随分長くなっているので)。まず、書寫山の「書寫(しょしゃ)」は、スサノオのスサに由来するという話で、かつて素戔嗚尊が降り立たれたという言い伝えに因んでいるとのこと。書寫山そのものが磐座で、10世紀に性空上人が入山される前から霊山として知られていたようである。
天下泰平・五穀豊穣を祈る年頭の行事「鬼追い会式(修正会)」は、不動明王の化身とされる青鬼と毘沙門天の化身とされる赤鬼が鬼踊りをするもので、千年に渡って継承されて来たという。もともとは旧暦1/18に行われていたのが、現在はG暦1/18に行われるようになったとの事だが、ここでも18が登場したのは興味深い。思えば、18も27も「9」の倍数だ。出雲に続く国道が9号で、スサノオが出雲の地で八岐大蛇を退治した時に、その尾から出て来たのが「三種の神器」のひとつ「草薙剣」であった事が、自然と思い出される。

それにしても、流石にメディアに顔を出してチベット人の苦しみを訴えられた僧侶の居るお寺である。摩尼殿だけでなく、奥の院に当たる「開山堂」にもチベット旗が掲げられていたのには感動した。もちろん、『ラストサムライ』や『軍師官兵衛』等に使われた「三つの堂」(大講堂・食堂・常行堂)のエリアも印象深いものがあったし、樹齢900年というご神木にも心打たれるものがあったが、伝統を重んじる古刹にあってチベット旗を掲げるのは、そう簡単な事では無いとも思う。しかし、だからこそ、そこに仏教者としての心意気を感じるし、チベットの人々にこの事が伝われば、彼らを勇気づける事にもなるに違いない。

お忙しい中、時間を割いてご案内下さった村岡さんの誕生キンはKIN140(10・太陽)。圓教寺の現住職は大樹玄承さんのお父様が第140世として継がれているというから、今回はKIN14のダライ・ラマ法王14世と、(現れを仕上げる)「10・魔法使いの年」シンクロで、村岡さんとお会いする事になったのかもしれない。
最後に余談を少し。10/10(KIN190)の朝、私はのぞみ201号13号車7Cという席で新大阪に向かっていた。先に大阪入りされていた先生方とはホテルのロビーで落ち合う事になっていて、他の剣武本部師範がどの交通手段で大阪に向かうのかについては、互いに全く知らないままであった。だが、私と同じ車両の同じ列の3つ後ろに、S師範が座っているのを途中で発見し、ロビーに数十秒遅れで到着したM師範も、実は同じのぞみ201号に乗っていた事が後で判明した。それで、このブログも何とかKIN201のうちにUPしたいと思ったのである。こうして「時の輪(カーラチャクラ)」は巡るのだと感じながら。
(※1)姫路城はドリームスペル(13の月の暦)との繋がりも深い。姫路城が世界遺産に登録された1993年は『テレクトノン』の預言の7年の始まりにシンクロしており、私達が訪問した「電気の月23日」は『テレクトノン』での「銀河の同期」に対応していた。
(※2)グラーツのカーラチャクラは2002年10月21日(KIN136)、つまり本ブログをUPした日付のぴったり13年前に灌頂が完了した。そして翌KIN137に法王の長寿の灌頂が終わった時、空には虹が架かったのだった。
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