自己存在

2008年10月02日 17:03

電気の月13日 (G10/2) KIN227  青い律動の手 (by D) 。
 
「赤い自己存在の蛇」の日(G9/30)、河合隼雄さんの『ユング心理学入門』を読んでいて、ハッと気付かされる事があった。シンクロ研究家としては、その言葉(シンクロニシティ)を唱えた張本人であるユングについて、もう少し知っておかないといけないなという思いで、ここしばらく、時間をかけてユルユルと読み進めているのだが、身の回りに起こる事柄と本の内容が、それこそ見事にシンクロしてくれるお陰で、理解がグッと深まり大いに助けられている。
 
さて、その日の気付きは、「自己」という章にある次の一節の中にあった。「自我が意識の中心であるのに対して、自己は意識と無意識とを含んだ心の全体性の中心であると考えた。自己は意識と無意識の統合の機能の中心であり、そのほか、人間の心に存在する対立的な要素、男性的なものと、女性的なもの、思考と感情などを統合する中心とも考えられる。」
 
『13の月の暦』では、13段階ある流れの4段目、あるいは4という数字に「自己存在の」という名前が与えられている。12:60世界の表面的かつ単調な視点にどっぷり漬かって来た立場で、この暦のキーワードや名前を見ると、意味が分かりにくいと感じられるものが多くある。この「自己存在の」という名もその一つで、特に日本語で「自己」という場合、勝手に「自己中心」や「エゴ」と結び付けられてイメージされている事も多い。しかし、上記のユング(あるいはそれを解説している河合さん)の説明によれば、そのようにイメージされるものは、顕在意識で認識できる範囲の中心である「自我(エゴ)」の方であり、「自己(セルフ)」はより全体的なものの中心とされている。

暦の提唱者の一人であるホゼ・アグエイアスは、その初期の著書『マンダラ』の中で、ユングのマンダラ論についても触れているし、両者にはチベット仏教に大きな影響を受けているという共通点もある。当然、ホゼは、数字に名前を与える時にも、この自己(セルフ)というニュアンスを意識しただろう。ウェイブスペルと呼ばれる13段階の流れの中で、1~4は、その後の流れの土台を決める一つのまとまりであり、ある種の全体性を持っていると言える。その事については、大分前からはっきり意識していながらも、何故そこ(4)で「自己存在」という名を使っているのかが、これまでは、いまひとつピンと来ていなかった。しかし、自己存在の日に読んだ「自己」の解説文により、私は、その謎が一気に解けた気がしたのだった。
 
これは、訳語の問題というより、それに付されている概念についての理解が浅かったから生じた謎であったと言って良いだろう。暦の絵文字や数字に与えられている名前、あるいは、それと関係するキーワードには、それぞれ同じような深い背景があると思われるが、その事を無視して、単に表面的な意味が分かり易いかどうかで訳してしまうと、その瞬間に本質的な情報が欠落してしまう可能性があるのだ。
 
暦に限らず、分かり易いもの、捉え易いものは、その時点で、12:60(グローバリズムと単調化のシステム)に矮小化されている可能性を疑った方が良いだろう。暦が分かりにくいのは、訳語云々の問題ではなく、アグエイアス夫妻が、12:60的な視点では捉えきれない多次元的で広大な領域の智慧を、その仕組みや言葉の中に込めているからなのだ。その証拠に、実際、発信源であるはずの英語圏で、日本以上に暦が普及しているという話は、殆ど耳にした事がない。そういう意味で、私達日本人は、この暦の存在を日本に知らしめ、重要な資料の数々を無償で翻訳して下さった高橋徹さんが、アグエイアス夫妻同様、古今の聖賢の智慧に広く通じているだけでなく、その実践者であったという幸運に、まず感謝すべきであろう。
 
おまけ:『ユング心理学入門』のP231には、チベット、マンダラという言葉が初めて登場する。231はLのKINナンバーであり、クリカの名刺(両面になっている)の彼女の面には、チベットの砂マンダラが印刷されている。一方、私のKINナンバーとシンクロするP241には、同時性(synchronicity)という言葉が初めて登場するのだが、名刺の私の面には、シンクロ研究家という言葉が印刷されている。ちょっとした事だが、中々面白いシンクロである。

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