頓悟のルーツ

2010年07月24日 01:40

■宇宙の月27日 (G7/23) KIN106 白い月の世界の橋渡し(by D)

熱帯並みの猛暑が始まったKIN102(G7/19)、知らぬ間に大都市化していた立川の街と人混みに驚きつつモノレールに乗換え、ひとつ目の高松駅で降りた。目的地である国文学研究資料館までの道のりは、距離にすれば大した事はないのだが、灼熱の太陽の下、だだっ広い道を歩くには少々遠いと感じる。にも関わらず、会場の大会議室には結構な人が集まっていた。

昨年、大阪千里の国立民族学博物館(通称みんぱく)で行われた「チベット ポン教の神がみ」と同じものが東京でも見られると知って、G昨年末からボン教の波を強く感じていた私は、会期中(7/2~9/10)に1回だけある長野泰彦教授による講演に参加すべく、すぐに予約のメールを送った。また、講演後に予定されていた、教授による会員向け質疑&展示解説を聞きたい一心で(他シンクロも色々あって)、みんぱく友の会の会員にもなった。

「チベット ポン教とは何か」と題された講演の内容は、やはり非常にタイムリーかつ興味深い内容で、それだけで「来て良かった」と思った位だったが、気になっていたいくつかの点について、展示会場で直接伺うことも出来て、私はすっかり満足してしまった。私の素朴な質問にも、気さくかつ丁寧に答えて下さった長野先生に、この場をもって御礼申し上げたい。ちなみに、質問内容は以下の通り(自分用のメモとして記しておく)。
 
ゾクチェンのルーツとしてのシャンシュンとウディヤーナの関係」「オルモルンリンとシャンバラについて」「シャンシュン語とギャロン語の関係性」。いずれも、学術的には現状どういう見解になっているのか、大雑把にでもつかんでおきたかったので、私にとってはこの上なくありがたい機会だった。エリアーデの『シャーマニズム』の翻訳に長野先生が深く関わられていたのに気づいたのも、割と最近のことだったので、何か色々なところで繋がった感じもした。
 
会場には、現みんぱく館長も来られていて、ユーモア溢れる挨拶をされながら来館などを呼びかけられていたが、振り返ってみれば、私は、天真会の青木先生のご紹介で、みんぱくの八杉佳穂先生の研究室に伺った事もあるのだ。奇しくも、会員に届く「月刊みんぱく7月号」には、長野先生と八杉先生の記事がほぼ並んで掲載されている。また、機会があれば、是非、先生方に色々と伺ってみたいものである。
 
ところで、講演の中では「漸悟VS頓悟」「インド仏教の正統的継承VS中国仏教(如来蔵)」「チベット大乗仏教(ゲル派)VS大究竟(→禅への波及)」という切り口での解説もあった。それによると、シャンシュンの辺りに由来を持つゾクチェン(大究竟)の教えは、仏教を取り入れたソンツェンガンポの時代に迫害を受け、半ば中央チベットから追い出される形で、東のギャロン(中国の四川省境界エリア)地方などに逃れて行ったという経緯があるという。
 
12、13世紀頃、ゾクチェンの思想を中心に置くボン教が、そのギャロン地方で大きく発展している点は、同時代にチベット(吐藩)と接していた中国(宋)で禅宗が興隆し、ちょうど日本からも道元や栄西が留学していたタイミングだったことを考慮すると、かなり興味深い。禅宗はインド僧・達磨が中国で開いたものとされているが、達磨の存在自体が伝説的であるし、仏教のルーツに迫るほどに頓悟の思想は見出せなくなる(私の知る限り)事を考えると、ゾクチェンの思想が影響した可能性が、かなりあるのではないかと思えて来る。
 
もしかしたら、漸梧だ頓悟だとこだわること自体がバカげた行為なのかもしれないが、悟りを「気付き」と置き換えてみれば、これらのことは少しイメージし易くなるかもしれない。頓悟・漸悟については、青木先生からも繰り返しお話を伺ってはいるのだが、まだまだ自分では消化しきれていない感じがあるので、この機会に、とりあえず、現時点での整理というつもりで、最後に少しだけメモを付しておきたい。あくまでメモなので、あんまり真面目に読まないようにして頂けたらと思う。
 
私達が普段何かに「気付く」時は、あえて「気付こう」などと思わなくても気付いてしまうものだし、かえって「気付こう」などと思うほどに気付けなくなることもある。かといって、意識が散漫に過ぎたり、逆に集中し過ぎたりしても、やはり何かに気付くことは出来なくなる。とすると、自分が意識的に出来るのは、あくまで「気付くための環境を整える」ことだけになるのではないだろうか。これが漸悟と頓悟という表現で、分離分類されているものの背後にあるものなのではないのだろうか。
 
つまり、「気付き(悟り)」というのは、本質的には頓悟しかなく、修行しながら段階を追って悟る漸悟とは、「気付くための環境を整える」ことにも注意を払った言い方なのではないか、ということである。環境を整えるという中には、出来るだけ修行の妨げになるような障害に出会わないよう戒を守ることも、瞑想や経典研究を通じて、散漫さや偏った見解(意識の集中)から離れるという意味も含まれる。
 
そんな事してもしなくても悟る時は悟るというのが頓悟の見解であり、できる事はやっておこう(人事と尽くそう)というのが漸悟の見解と言えるのではなかろうか。頓悟を声高に叫ぶ者でも、無意識に漸悟的手法を取っていたり、悟りの道は漸悟のみと信じる者も、その瞬間は頓悟的であることを忘れていたりするだけなのかもしれない。いずれにしても、悟り(気付き)自体はコントロールできるものではないという点は、共通しているように思う。結局、言葉とは、どこに注目しているかを示すものなのかもしれない。

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