若返り健康法を引き寄せる

2012年10月15日 22:41

■電気の月26日 (G10/15) KIN140 黄色い惑星の太陽(by D)

最近はツイッターでしゃべって満足してしまうので、どうもブログが滞りがちだ。しかし、ある程度まとめておくと、後々自分でも調べ易いので、ここ数日の出来事を以下に簡単に整理しておこう。

KIN140の今日、荒木飛呂彦氏の”若々しい”表紙写真と歯切れの良いインタビュー記事に引かれ、珍しく『AERA』を購入した。ひとつ前の記事にも書いたが、荒木氏は現在『13の月の暦』での還暦に当たる52才で、「銀河の署名」は「白い惑星の犬(KIN10)」だ。ということは、今日でちょうど52才と130日、つまり自身の反対のパートナーに当たる日付に『AERA』の表紙を飾ったことになる。

反対のパートナーの日付は、誰にとっても26才の時の「運命の道筋」に対応し、『13の月の暦』の26日にもしっかりシンクロしている。流石にインタビューの中で「リズム」について語っているだけのことはある。「漫画でしかできないことを、漫画でやりたいんです」「アイディアも、今日までに出すと決めたら出しますね」という姿勢も素晴しい!私の人生に大きな影響を与えた漫画の作者が、こういう生き様をしているのは、やはり嬉しい。

たまたま、他のページに高須克也VS南雲吉則のDr健康法対決の記事も出ていたのだが、どちらも単なる若作りで、はっきり言って全く魅力を感じない。雑誌記事だけで彼らの唱える健康法の善し悪しを判断することは出来ないが、いずれにせよ「若作り」と「若い」は全く別ものだ。おそらく、彼らの健康法などより、荒木氏の生き様に学ぶ方が、余程”若返り”の効果は高いだろう。

私自身、学生時代から各種健康法を研究し、あれこれ実践もして来た。今現在、自分がやっていること(天真体道やウォーターセラピーや13の月の暦等)も、長期の検証に耐え抜いた健康法の側面がある。ただ、「○○だけやっておけば大丈夫」という精神(姿勢)で取り組むと、どんなに優れた健康法もその効果は落ちる、というのが私の持論でもある。

依存(よりかかり)と保身(安定志向)がベースにある人は、「できるだけ間違い(失敗)の無いもの(手法)」を探して群がるが、実はその精神こそが「不健康の種」だとは気付かないのだ。「生命力は開拓し挑戦する時に高まる」というのが、私が健康法研究から見出した現時点での結論である。荒木氏が漫画にのめり込んだのは、横山光輝梶原一騎作品の「何かを切り開いていく感じ」に惹かれたからだそうだが、奇しくも上記の持論と響き合っている。

また、動機(志)の高さも大きく関与する。最終的な動機が「自分のため」という人の行為は何であれ、そのパワーはたかが知れている。「○○のため」と言いながら疲弊している人は、本当は「自分のため」(人に良く見られたい等)が動機なのに、無理して「○○のためのフリ」をしているケースが多い。もちろん、自分も全体の一部なのだから、自分をないがしろにするのはおかしいが、「自分が第一」という動機だと、大したパワーは出ないという事だ。

【君らとは闘う動機の「格」が違うんだ!】とは、KIN137(10/12)深夜に放映された『ジョジョの奇妙な冒険』の名ゼリフだが、最近、「動機」について特に意識していたので腹に響く言葉だった。 B・フラーにしても、ノーベル賞の山中教授にしても、何が違うって「動機」の格が圧倒的に違う。それは顔つきにもはっきりと出るものだ。

電力会社、官僚、政治家の多くが信用できないのは、その行動、発言のベースにある「動機」が、陳腐なほどに「自己保身とお金」だけにあることが透けて見えるからである。どんなに素晴しい(と見える)活動をしている人でも、その根本的「動機」が陳腐だと、全てが薄っぺらく見える。

お金もあって精神的にも満たされているのが幸せ〜という風潮が、「引き寄せ」だとか「金持ち父さん」だとかの言葉を生んで、例によって10年遅れ位で米国から盛んに輸入されて来たが、それに群がる人々の「動機」は、大抵陳腐である。色々な言い訳が用意されてはいるが、鋭く本質を突くと、殆どの場合、自己の肥大した欲を満たすことしか考えていないのが明らかになる。

また、同じツール(暦でも占いでもヒーリングでも瞑想法でも何でも良い)を用いていても、それを活用する人の「動機」がどこにあるかで、実際にそこで行われていることの意味はまるで違うものになる。見た目も体験も、殆ど差が無いケースがあるのがやっかいだが、包括的で継続的な視点があれば、ほぼ見分けられるようになるだろう。

ちょうど良い例として、最近発刊されたTRANSIT『美しきチベット』というムック本がある。長年に渡って真摯にチベットサポート活動を続けて来ている人々の間では、すこぶる評判が悪い。何がそんなにマズイのだろうか?と気になってはいたが、目にする機会が無いまま日が過ぎていた。ところが、ちょうど昨日、その本を貸して下さった方がいらして、ザっとではあるが目を通す事が出来た。

写真も構成も執筆陣も、文句の付けようが無いほど選び抜かれているにも関わらず、確かにどうしようも無い違和感がある。その原因は、おそらく以下のようなことだと思う。チベットについてあれこれ詳しく紹介しておきながら、主人公であるはずのチベット人に対する思いやりに欠けている点、そしてフリーチベット活動に対する、編集者の極端な(おそらくは個人的な由来に基づく)嫌悪感が滲み出ている点だ。

全般に字が小さ過ぎて、読者の事をまるで考えてないことも、自分勝手に作っていて思いやりが無いという点で、チベット人への配慮の無さと通じるものがある。そもそも、欧米対中共という政治的文脈でチベットを語ろうとする時点で、チベット人の存在が置き去りにされているのである。編集者が学生運動世代か何かで、○○運動みたいなのを嫌っていた人なのかもしれないし、確かにフリーチベット運動でも反原発運動でも「訳も分からず騒ぎたい人」が混在している事実はある。

が、多くのチベットサポーターは、直接チベット人の友人から話を聞いていたり、チベット本土や亡命先の難民キャンプの様子を良く知っている人々だ。「売れる雑誌作りのため」に、薄っぺらく取材した者よりは、ずっとチベット人に近い感覚で活動していると思う。フリーチベットと声を大にして叫んでいるのは、別に○○活動家みたいな者ではなく、本土に家族や親戚を残して来た普通のチベット人たちであり、その困難な境遇に同情し、少しでも寄り添って行きたいと考えている普通の日本人たちなのだ。

という訳で、上記の雑誌は、せっかく素晴しい素材(美しい写真や情報)が揃っているのに、料理人(編集者)の動機(志)がピンぼけしていて、一番ベースの味になっているチベット人に対する思いやりにも欠けていることで、残念な仕上がりになってしまったパターンの良い例と言えるだろう。この雑誌で初めてチベットの事を知る人が、そういう微妙な歪みを感じ取るのは難しいかもしれないが、包括的、継続的に観察を続けて行くと、大体同じ結論に至るはずである。

最後に、もう一度、ジョジョに戻ろう。コミック本のジョジョは、実家に12巻まで今も保管してあるが、リサリサ(LISA LISA)という登場人物に共通点を感じてLが別途手に入れた11巻だけが、今、手元にある。その巻頭に、若き日の荒木氏のコメントがあるので、それを引用したいと思う。

「政治とかには、ほとんど関心を示さないぼくも、さすがに最近の日本の将来には、不安を少なからずおぼえます。だれもが、お金や物質的な利益だけを求めているのは、危険だと思う。もっと、精神的な豊かさが、必要だ!だから、自分もマンガを通じて、もっと人のためになることをかかなくては!と反省するのです。」


13:20マトリクスタイプのツォルキン(260日暦)で、中心7列目の神秘の柱のラストの新月。そして『7:7::7:7』では、今月全体とシンクロしている(=二重に今月である)電気の月の26日に、これを記す。

コメント

    コメントの投稿

    (コメント編集・削除に必要)
    (管理者にだけ表示を許可する)

    最近の記事