遣唐使

2007年12月18日 23:13

律動の月6日(G12/18)  KIN199  青い自己存在の嵐 (by D)

KIN87(G8/28)、満月(皆既月食)の朝方に目を覚ましたLは、唐突に「Dは遣唐使だった」とつぶやいた。寝る前に、「今夜は夢を覚えておくようにしよう」と言ってはいたが、寝ながら過去生リーディングをしてくれるとは思わなかった(「千夜一夜リーディング」参照)。そう言われてすぐに記憶が取り戻せるほど記憶力の良くない私は、それでも興味はあったので、史料に残っている人物で誰かそれっぽい人がいないか、ネットで遣唐使について調べたりした。その時、気になった何人かの中に、井真成という人物が含まれていた。

そこから数えて3回目の満月が巡って来たKIN175(G11/24)、書法塾の祝賀会の帰り、倫理研究所の丸山さん(と気軽に呼んでしまうが今は理事長)から、一冊の本を手渡された。しかし、『日本創生への道』(丸山敏秋著)というタイトルが付けられたその本を、真剣に読み始めたのは、およそ一週間が経過してからだった。そして、P47から始まる「大化の改新—第一の日本創生」の所で、私の目は釘付けになった。

何故ならそこには、2004年10月に中国の西安市で発見された遣唐留学生、井真成の墓誌について書かれていたからだ。先にネットで調べた時には、そんなに話題の人物だとは知らなかったのだが、その墓誌には、はっきりと「日本」という記述があり、確認されている最古の「日本」の用例でもあるというのだ。だが、私が最も驚いたのは、「西安で発見された墓誌」というテーマと、彼が西安(長安)で36の時に亡くなったという点であった。

シンクロニック・ジャーニー』第7章にも書いたが、2006年に私達は西安を訪れている。この時、碑林博物館で開催された書法塾の臨書発表会に、私は北魏の「墓誌銘」の臨書を出しているのだ。30名程が参加したこの発表会で、墓誌銘を書いたのは多分私だけだったと思う。しかもこの時、自分が36才だった事もあって、陝西歴史博物館では、36マス魔方陣(6×6)にも注目していたのだった(それ故、拙著に写真も掲載した)。

さらに、その後、その墓誌は171文字からなり、蓋の12文字を合わせると全部で183文字になる事が分かった。KIN171は、伊勢神宮で結婚の報告をした日付、KIN183(1・夜)はキチェー・マヤに伝わる方式で数えた時の、私のKINバースデーでもある。この辺になると、かなりこじつけっぽくなって来るが、気づいた事をメモしておくとさらなる気づきが得られる事が多いので、どうかお許し頂きたい。
 
それから、こうした一連の繋がりが見えたからと言って、私は別に、自分の過去生が井真成だなどと言うつもりは無い。もちろん、全く関係ないとも思えないが、具体的に何かを思い出したり、現代の私が活用できる情報でも無い限り、これらのシンクロは、私にとって人生の楽しみと活力の源という以上には、特別な意味を持たない。ちなみに、この件に関して詳しく書かれている『遣唐使から見た中国と日本』は、朝日選書のNo780(260×3)で、2005年7/25(KIN103)の発行となっている。これは、昨日の日記にご登場頂いたマダムサチコの今年の道筋ともシンクロしている。

ところで、2004年の10月といえば、ダラム・サラでダライ・ラマ法王に初めて謁見した頃に当たるのだが、丸山さんとお会いした日のちょうど一週間前(KIN168)、私達は伊勢で偶然法王と同じホテルに滞在し、そこで興味深い新聞記事を目にしていた。談山神社(大化の改新と密接に関係する)の十三重の塔が40年ぶりに修復され、落慶大祭が行われたというニュースだった。
 
思えば、1997年に「時間の法則に関する世界会議」が倫理研究所で行われた時(KIN199から始まった年の終盤)、ちょうど『時間の法則の20の銘板』が発表され、G7/26からコドン1「創生」が始まった。会議の2ヶ月程前に来日していたアグエイアス夫妻を、談山神社に案内したのは、確か丸山さんだっと記憶している。この時ホゼは、645年からちょうど1352年経過したタイミングに、その十三重の塔を訪れた事から、1段を104年(カレンダーラウンドの2倍)と見るヴィジョンを得ていた。
 
それから10年の時を経て、『日本創生のへの道』を手にし、大化の改新の項(P47)で遣唐使のシンクロに驚かされている自分がいる。おまけに昨日の日記には、KIN47の人(元三重県知事)も登場したばかりだ。だが、私はこの本の表紙カバーを取り外した瞬間、もう一度大きく驚かされた。何故ならそこには、2013年に遷宮が行われる内宮の御敷地の写真が、表紙一面に展開されていたからだ。やはり日本の心はここにあり、って事だろうか。

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