鎌倉みちのく魔術紀行(1)

2015年08月21日 01:39

磁気の月26日(G8/20)KIN139 青い太陽の嵐(by D)

「運命の道筋」が新しい13年サイクルへと入る(=銀河の音が1になる)年は、人生における「魔術飛行」が生じるという意味で、重要なターニングポイントの一つだと思う。これは、誰かに教わった知識で語っているのではなく、20年近く『13の月の暦』を使い続け、身近な人々を観察し続けて来た私自身の実感である。

それだけに、「ドリームスペル創世記」の観点から見ても最大の変換ポイントの一つと言える「青い磁気の猿」(KIN131)の道筋に入って行く事には、特別な思い入れがあった。加えて、KIN131は宮沢賢治の誕生キンだ。父や祖父、親戚達が卒業した高校(旧制中学)の先輩でもある賢治に、ある種の親近感と憧れを感じていた私は、自分達の活動名にも、賢治の『農民芸術概論』にインスピレーションを得た「時間芸術学校」の文字を入れている程だ。

そんな訳で、今年の誕生日の過ごし方については、結構真剣に検討していた。何事も「始め方」が肝要である事を、天真体道(剣や書、瞑想)の稽古や暦の体験を通じて、ひしひしと感じて来たからだ。おそらく、今生において、自分の心身の充実度が(総合的に)最も高まる期間でもあると思うので、そのスタートには大いなる魔法を掛けておきたい。

しかし、具体的に予定を決めたのは、誕生日を9日後に控えたKIN122(G8/3)になってからだった。どうしてそうしたのかは忘れてしまったが、私はまず、賢治と三陸地震の関係を再確認する事から始めた。パレンケでパカル王の墓が開封された1952年6月15日(KIN218)からぴったり56(7×8)年前の1896年6月15日(KIN58)、明治三陸地震が起こっている。賢治が生まれたのはその73日後、「赤い自己存在の月の年」の元旦(=KIN69)から33日目の8/27(KIN131)である。

一方、昭和三陸地震が起きたのは1933年3月3日(KIN199)。賢治が他界したのは、その年の9/21(KIN141)で、「黄色い律動の種の年」の元旦(=KIN84)から58日目に当たる日であった。パカル王やパレンケの「碑銘の神殿」に関する数字に詳しい方なら、ここから様々なサインが読み取れる事だろう。

しかし、わざわざお盆の大移動と重なる時期に、賢治の足跡を辿ってみちのく方面に向かうのは気が進まないし(行くなら別なタイミングを選ぶ)、万難排して訪れたくなるような場所も思いつかなかった。そこでふと浮かんだのが江の島だった。沖縄のカミンチュ外間先生(※)が「弁財天と縁がある」と伝えて下さったのを思い出したのだ。先生は私のぴったり1スピン前が誕生日なので、「運命の道筋」も常に私に先行する形で同期する事になる。ひと足先に賢治の道筋(1・猿)に入られた外間先生が、今、行くべき場所を思い出させて下さったのかもしれない。

(※)外間先生に関しては「おきなわ祈りの旅」シリーズに記してある

鎌高陸上部時代に、江の島の頂上まで登って帰って来るコースを何度か走った記憶はあるものの、江島神社をきちんと参拝した記憶は殆ど無いし、弁財天についても三大弁財天というのを耳にした事があるだけで、参拝した事があるのかどうかも分からない始末。外間先生からお話を伺った時に、「江の島の弁財天をお参りしなくては」と思ったのにも関わらず、実行に移せないまま時間が過ぎていた事、二子玉川からだと割と交通の便も良く、多少暑くても早めに出れば大丈夫だろうと思えた事で、誕生日巡礼の第一候補に江の島が躍り出たのだった。

だが、それを「決意」のレベルにまで変容させたのは、江の島の歴史を調べ直した時に判明した、以下の情報によるところが大きかった(以下、Wikiより抜粋引用)。

・文武天皇4年(700年)4月 - 役小角が江の島の岩屋に参籠し、以来、島全域が聖域として扱われた。
・弘仁5年(814年) - 伝承によれば空海が金窟(現・岩屋)に参拝し国土守護・万民救済を祈願、
社殿(岩屋本宮)を創建、神仏習合により金亀山与願寺(よがんじ)という寺院になったという。
・寿永元年(1182年) - 源頼朝の祈願により文覚が弁才天を勧請。
・文治元年(1185年) - 頼朝が弁才天(現・奥津宮)に鳥居を奉納。
・建久元年(1190年) - 北条時政、江の島に参籠、一族の繁栄を祈願する。
この時、龍神の残した3枚の鱗をもとに、北条氏・「三鱗」の家紋と定めた。
・弘安5年(1282年) - 一遍(いっぺん)鎌倉入りを拒まれ、江の島へ渡島したと伝える。
・1600年(慶長5年) - 徳川家康が参拝した。

縄文時代から人が住んでいた場所というのにも大いに刺激を受けたが、個人的に最もインパクトがあったのは、役小角が岩屋に参籠したという話だろう。【持統天皇と「八」の秘密】にも書いた通り、役行者とのシンクロは、ここ半年程ずっと続いているからだ。だが、空海もリアルタイムでビシバシ来ているし、頼朝は通っていた附属鎌倉中のすぐ隣で鎌倉幕府を開いた人物だし、文覚は洒水の滝を拓いた方だし、北条氏は高倉健からの繋がりがあるし(後述する予定)、時宗の宗祖である一遍は、かつて学んだ枇杷葉温圧療法とも関係が深い。という事で、「これは何としても江の島(特に岩屋)に行かなくては」と思ったのであった。
写真 ★江の島岩屋付近からの風景

また、江島神社の御祭神が、宗像三女神だと知った事も、その決意をより確かなものにさせた。何しろ、古事記においては、誓約において、天照御大神が須佐之男命の「十拳剣」を譲り受けて生んだ神々。仏教との習合によって、弁財天女とされ、江島弁財天として信仰されるに至り、 海の神、水の神の他に、幸福・財宝を招き、芸道上達の功徳を持つ神として、今日まで仰がれるようになった…とも公式サイトには書かれている。水に関する仕事をし、剣を教え、書を学ぶ私にとって、これ以上ぴったりな巡礼地はなかろう。

ところで、これら一連のメモを手帳に書込んだりツイートメモしたりした翌日のKIN123(G8/4)、帯広の時空のサーファーJさんが、以下のようなツイートを(私が江の島にチャンネルを合わせる前の)8/2の時点でしていた事に気付いた。

”今日、車の中でつけていたテレビから、ちびまる子ちゃんが「ミツウロコ、ミツウロコ」と連呼。普段、観てないので、なんだ?と思って観たらCMだった。「ミツウロコ」のマークは、江ノ島の弁才天の紋章や、宇宙図書館の入り口にある「勇気の紋章」と同じカタチの図形。”

Jさんは『シンクロニック・ジャーニー』P93に登場するKIN20の人物と同一人物だが、流石に私(KIN241)の「神秘のパートナー」(※)だけあって、いつも私を予期せぬ情報で驚かせてくれる。ちなみに、『シンクロニック・ジャーニー』にバックミンスター・フラーはKIN20と書いてしまったのは私の勘違いで、フラーの誕生キンはKIN240が正しい(お詫びと共にこの場で訂正させて頂く)。

(※)KIN番号の合計が261になるドリームスペル特有の組み合わせで、マヤ暦にそのような考え方や計算法は存在しない

G8/4がKIN123だった事で、私はパカル王の石棺が開いた日付について、やっと本気で探求する気になった。石棺の開封がKIN123だった事は、ホゼの資料にもよく出て来るのだが、それがG暦で何月何日に相当するのかは、(私の知る限り)邦訳資料のどこにも書かれておらず、推測の域を出ないままになっていたのだ。しかし、英語で検索すれば出て来るのではないか?と今ごろになって思い立ち、実行してみると、あっという間に確認出来てしまったのである。

先の三陸地震との関係もあるので、整理して書いておこう。パカルを埋葬した「碑銘の神殿」の墓室の扉が開いたのは、1952年6月15日(KIN218)。その後、遺体が眠っていた石棺の蓋が開封されたのは、同年11月27日(KIN123)。従って、今年の8/4で、開封88銀河スピンという事が判明した。

ちなみに、墓室開封から20年後の1972年6月15日はKIN238で、江島神社の住所「江の島2丁目3番8号」と数字の並びがシンクロする。「神秘のパートナー」であるKIN20のJさんが江の島について言及していた事、マヤの数学が20進法であった事、伊勢の式年遷宮が20年単位である事などがつらつらと思い出される。

本当はあともうちょっと書き進めてからひと区切りとしたかったが、そろそろ電池切れになって来たので、この記事を書いた日の出来事で、この「鎌倉みちのく魔術紀行」と密接に関係しているように思える、全国高校野球選手権大会決勝の結果だけメモして本稿を終えようと思う。

東海大相模、高校野球100年目の夏を制し45年ぶり2度目のV」。これが8/20(KIN139)に記録しておきたいニュースのタイトルである。決勝で素晴しい試合を見せてくれた東海大相模(神奈川)と仙台育英(宮城)は、私にとって、鎌倉幕府と奥州藤原氏(あるいはエミシ)とのせめぎ合いのようにも観えた。

前提となる情報がないと、すっ飛び過ぎた話に聞こえるだろうが、これから先、解き明かされて行く流れを見て頂ければ、それなりに共感してもらえるのではないかとも思う。一部だけメモしておくと、私が誕生日(G8/12)に江島神社で引いたおみくじは45で、かつて岩手県大会で優勝経験のある父が他界したのはKIN45であった(当時は県大会で優勝してもそのまま甲子園には行けない時代)。父の本籍地は岩手だったが、人生の半分以上は神奈川県人として過ごした。

さらに、東海大相模の住所は「相模原市南区相南3-33-1」、仙台育英は「仙台市宮城野区宮城野2-4-1」と「多賀城市高橋5-6-1」にある事が、今日分かった。鎌倉を含む相模国のエリアと、蝦夷との境界に当たる軍事拠点「多賀城」のエリアでの決勝。3331の鏡数字1333は鎌倉幕府が滅亡した年であり、241は、この一連の出来事に注目し、発見をし続けている私の誕生キンである。もちろん、そこに繋がりを見出すのは私の勝手な妄想かもしれないが、メモしている内容は全て事実である。

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