鎌倉みちのく魔術紀行(5)

2015年09月11日 22:02

月の月20日(G9/11)KIN161 赤い倍音の竜(by D)

オープンしたての丸山珈琲でリフレッシュした後、段葛が終わる三の鳥居まで行ったところで右折して、それをそのまま突き当りまで東に向って歩き続けると、宝戒寺に行き着く。附属中の正門から真っ直ぐ南に150m程しか離れていないのに、高倉健(13・魔法使い)の本を通じて関心を持つまで、この寺の名前も場所も全く知らずにいた。健さんの『あなたに褒められたくて』には、当時の住職の言葉を借りて以下のような説明がなされている。

”ここ宝戒寺はかつて、代々の北条家当主の館、得宗屋敷のあったところだという。鎌倉幕府の執権として、幕政の実権を掌握した北条時政から高時まで、十四代が住まいとした地である。”(中略)”宝戒寺は、この高時以下の怨霊弔祭のために建武二年(1335年)、後醍醐天皇が開基となり、足利尊氏に命じて、小野亭と呼ばれた得宗館跡へ建立したのだそうだ。”

歴史上これだけ重要な場所であれば、当然どこかで教わったり耳にしたりしている可能性はあるのだが、少なくとも私の記憶には何も残っていなかった。しかし、鎌倉幕府の執権が十四代住み続けた地に、現れを仕上げる「白い惑星の魔法使いの年」(紋章コード番号14)の、しかも自分の誕生日に、初めて意識的に訪れる事になるとは、まことに魔術的である。本シリーズ(1)に書いた通り、江ノ島鎌倉巡りをしようとした主なきっかけは他にあったのだから、もし健さんの本を読んでいなかったら、宝戒寺については未だに知らいままだった可能性が高い。

”建久元年(1190年)- 北条時政、江の島に参籠、一族の繁栄を祈願する。この時、龍神の残した3枚の鱗をもとに、北条氏・「三鱗」の家紋と定めた” と魔術紀行(1)で引用した内容に、どこまでの信憑性があるのかは知らないが、宝戒寺の門にも、江島神社で見られたのと同じ北条氏の家紋「三つ鱗」が、はっきり見て取れるように使われていたのは確かである。世間では「萩寺」として親しまれているらしく、実際、参道も境内も萩が生い茂っていたが、まだ花の季節ではなかったし、半ば生え放題のような印象もあって、正直あまり風情があるとは思えなかった。

境内をひと巡りしてから門を出、段葛に並行する道を海の方に向かって(丸山珈琲の裏手の方へ)進むと案内板が見えて来る。そこを左折して滑川に架かる東勝寺橋を渡ると、住宅地の合間を抜ける坂道は次第にキツくなり、程なくして左手にフェンスで囲まれた広い空き地が現れる。それが東勝寺跡であった。三代執権・泰時(→明恵上人とも交流があった)が北条氏の菩提寺として建立した東勝寺は、1333年の新田義貞の鎌倉攻めによって灰燼に帰したという。真夏の昼間だというのに、何とも寂しげな所で、ハイキングコースから降りて来た賑やかな集団が居なかったら、きっともっと寂しい雰囲気だったに違いない。

滑川を渡った辺りから場が変わったというLは、それ以上先に進もうとしなかったが、私は「高時腹切りやぐら」の案内がある所まで進み、洞窟みたいな横穴の前に立つ卒塔婆が見える位置まで近付いてみた。しかし、そこまでの道が雑草で殆ど塞がれていたのと、卒塔婆の上を一匹(頭)の黒アゲハがヒラヒラふわふわと舞い続けているのを目にして、何となくそれ以上近付くのは止めた方が良い、という気分になった。それで、心の中で般若心経を唱えてから、来た道を戻ったのだった。

それにしても、北条氏の一族八百七十余名が自害して果てたという場所のすぐ側で、普通に生活されている方々がいらっしゃるのには驚かされた。もちろん、そういう事をいちいち気にしていたら、どこにも住めなくなってしまうが、あの独特の雰囲気は、Lみたいな感覚の持ち主でなくても、何かしら感じるものがあるのではないだろうか。まあ、どんな環境もそれが当たり前になっていると、意外と何でも無いのかもしれない。

そんな事を話しながら、再び宝戒寺の前を通ってそのまま北上し、学校の正門から部活で駆け回っていたグラウンドを眺め、敷地の南側の道を八幡宮の境内に向った。源平池の亀や鯉は、近くで餌が売られいるせいか妙に人間慣れしていて、岸に近付くだけで一斉に寄って来る。中には這い上がって来る亀までいたが、蓮で埋め尽くされた池の辺りは、通学当時の面影がそのまま残っていて懐かしい思いがした。
源平池 
5年前のG3/10(KIN231)、Lは自身の誕生キンとチベット民族蜂起51周年が重なるこの日に合わせて、天真書法塾シャンバラ教室をスタートした。驚くべき事に、同日、樹齢千年と言われる鶴岡八幡宮のご神木・大銀杏が倒れた。翌3/11に急遽状況を観に現地を訪れた事も含め、当時の事は過去記事まとめてあるが、みちのくと鎌倉の関係性も踏まえつつ今振り返ると、その1年後に生じた東日本大震災との繋がりについても考えたくなる。

もちろん、当時はご神木事件(木を弱らせる薬剤が注入されていた等)が各地で頻発しており、人為的な何かが関与した可能性も十分考えられるが、流石に倒れるタイミングまでは調整できないだろう。考えてみれば、八幡宮に参拝するのもあの時以来かもしれない。大銀杏の切り株からは、沢山の若芽がグングン成長していて、新しい世代が順調に育っているのが感じられた。階段を登り切ったところで後ろを振り返ると、若宮大路(段葛)が海の方まで真っ直ぐに伸びているのが一望出来る。

御正殿に参拝し、恒例のおみくじを引く。神籤箱を振ると、出て来たのは8番だった。隣で別な箱を振っていたLも同じく8番!八幡宮で二人揃って「八」というのは、それだけで縁起が良い気がするが、「運は始めから身の内にある」とか「願望:自然に叶って行く」など、まるでゾクチェンの任運成就のような書かれ方がしてあるこの神籤の運勢は「吉」。「千代経とも かくてあるべき 新しき 年の初めの 今朝のこころは」という歌も、新しい13年の始まりにピッタリで、ありがたく受けとめた。
88.jpg 
同時に、8+8=16とか8×8=64という数字は、私にJAL123便の事を思い起こさせるものでもあった。鎌高生だった16才の誕生日(KIN101)に、高天原山御巣鷹山は誤報道)に墜落した日航機には524名の方が乗っており、520名の方がお亡くなりになった。16年後の32才の時、私は易の64卦を『13の月の暦』の周期で意識化する銀河ツール『時間の法則の20の銘板』日本語版の世話人を引き受け、カンパされた予算から520部を制作&配布した(その当時の私は123便の目的地であった大阪に住んでいた)。当時、予算から500部前後が制作可能と判断され、それならツォルキンの倍数にしようと言う事で決まった数で、事故との関係は全く意識していなかった。

後にこの関係に気付いた時には流石にゾッとしたが、もし2つの出来事の間に何かしら関係があるのなら、『20の銘板』の配布には、きっと慰霊の働きがあるはずだ、と私は信じることにした。そして今回、新たに気付いたのは、おみくじにもある鶴岡八幡宮の「紋」とJALのシンボルマークが、共に「鶴丸」紋であるという事だ。調べてみると、JALは元々使っていたこのマークを、経営統合された2003年から再出発となった2011年までの8年間だけ使用していなかった。

以下、既に書いた事も含め、数字関連のメモをまとめておこう。誕生日の8日前G8/4のKIN123は、パカル王の石棺開封(1952年11月27日)から88銀河スピン(88×260日)のタイミングであり、石棺開封のぴったり30年前の1922年11月27日に、宮沢賢治(KIN131)はその日他界した妹とし子のために「永訣の朝」を詠んだ。JAL123便は、八幡宮を参拝したぴったり30年前の私の誕生日に、相模湾上空でトラブルが発生して高天原山に墜落した。
八重洲 
今日、このブログを途中まで書いて日中出かけた時、ふと目に入って来た住所は八重洲2丁目8-8だった。また、巡った順番とは違うが鎌倉の住所データは以下の通り。
丸山珈琲 :雪ノ下1丁目10-5
鶴岡八幡宮:雪ノ下2丁目1-31
附属中学 :雪ノ下3丁目5-10
各住所の前半は123便やKIN123とシンクロし、それ以下の数字はある種の対称性を示している。10+5=5+10=15は、鶴岡八幡宮の御祭神、第15代応神天皇とシンクロし、1-31は八幡宮を訪れた誕生日当日のKIN131とシンクロしている。八幡宮の住所が131とシンクロする事はG8/3(KIN122)の時点で気付いていたが、江ノ島弁財天をきっかけにした誕生日の巡礼参拝が、こんなに盛り沢山で多重な物語を呼び起こすとは思わなかった。

後日談がまだ少し残っているが、911から14年、「白い惑星の魔法使いの年」(KIN114)、キチェマヤに伝わる古代からのツォルキンだと、ちょうど「10イシュ(ドリームスペル形式でKIN114に相当)」だった今日の内に書いておきたかったのは、この辺りまでである。

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