2017年11月06日 01:08
■自己存在の月19日(G11/5)KIN166 白い惑星の世界の橋渡し(by L)
クラクフはとても美しい街だ。中央広場の聖マリア教会の高い塔(81m)からは、夜も休まず24時間毎時、時を告げるトランペットの演奏が聞こえてくる。その演奏は、あるところまで来ると「ピタッ」と中断される。この塔で、13世紀にモンゴルの襲来を告げるためにラッパを吹いていたラッパ兵が敵に喉を射られ、演奏の途中で命を落としたことを、市民たちが今も追悼し続けている行為なのだという。ポーランド市民の、祖国と同胞を思う気持ちは深い。
★クラクフ中央広場の聖マリア教会。左側がトランペットの塔。
ポーランドに関する多重シンクロは、これから少しずつ書き重ねていくだろう。しかし今日は、カチンスキ大統領のことを書こうと思う。今日でなければならないから。
2010年4月10日、レフ・カチンスキ大統領夫妻とポーランド政府要人・軍人を乗せた飛行機が墜落。96名の乗員全員が死亡する事件があった。飛行機は、「カチンの森事件(*)」70周年の追悼式現場(現ロシア西方)へと向かっていた。(*戦時中のソビエトによるポーランド人捕虜数万人の虐殺事件。正確なことは明らかにされてない)
カチンの森とカチンスキ大統領という名前の一致。同胞の追悼に向かった飛行機が、現場近くの森で墜落し乗員(ポーランド要人)全員が亡くなるという二重の悲劇。2010年の事件当時、ニュースで知って大きな衝撃を受けたものの、ポーランドとは特に接点もなく、この事件のことはその後すっかり忘れていた。しかし旅の下調べをしているうちに思い出し、この事件が、私たちがこれから向かう国で起こったことなのだと、急にリアリティーを感じる様になった。そして、以下の情報に触れた時には、正直戦慄を覚えた。
「大統領一行を乗せた飛行機は、ツポレフ154M型/機体記号101/96名全員が他界。」
今回の旅のスタートはKIN154から。KIN101は私の反対のパートナー、日航機123便事件当日のKIN、そしてD16歳の誕生日だ。また96は、シャンバラの数であり、Dの誕生日は8月12日(8×12=96)、私の誕生日(1月14日)のPCUは96。今回初利用のポーランド航空の日本就航は昨年の私の誕生日。ゆえにポーランド航空就航日PCUも96である。(成田ーワルシャワ直行便は、往路LO-79/帰路LO-80便と自分のメモのために書いておこう。ついでに昨年の誕生日に買った羽布団の羽がポーランド製だったことも。)
ところでこれを書いている今日は、皇太子殿下(1960年2月23日生)の誕生KIN166。81スピンの完了。お誕生日PCUは159(これが後で効いてくる)。
カチンスキ大統領(1949年6月18日生)も、誕生KIN166。存命であれば96スピンの完了。同じくPCUは240。
大統領夫人マリア・カチンスカさん(1942年8月21日生)は誕生KIN15(美智子皇后陛下と同じ)。PCUは260。
これら一連が何を意味するのかはわからないが、私たちが何故このタイミングでポーランドに行ったのかの材料が揃っている。少なくとも私たちにとって、カチンの森事件とカチンスキ大統領は記憶に刻まれる。知ってほしいと時空から呼びかけられたのだ。しかし世界中の誰もが普通に注目している事件というわけでも無いだろう。戦時中のカチンの森事件はソ連(現ロシア)にとっては自分たちの罪と認めたく無いし、敗戦国ドイツの仕業となすりつけたい。ドイツはドイツで、もちろん逆のことを言っている。戦後、周辺他国の影響下にあったポーランドでは、長年、強力な抗議もできなかっただろう。更に2010年の飛行機事故の原因は、ロシアによる暗殺説から、カチンスキ大統領のパイロットに対する無謀な着陸命令が事故原因という説まであり、真相はわからないままだ。
世界には、意図的に封印された、あるいは無きものとされた、我々の知らない様々な事件があるのではないか。しかし、あるものはことのほか大きく取り上げられ、あることは世界中が見て見ぬふりをする。無きものとされたり、逆に捏造されたりもする。国と国のパワーゲームの材料として、人々の苦しみや悲しみが政治利用されてる事柄があまりにも多いように思う。
私たちは今回「負の世界遺産」として世界中から見学者の集まるアウシュビッツに行くつもりは、最初から無かった。犠牲となった方々にはもちろん心からの哀悼を感じているし、子供の頃から私にとってクラクフといえば、アウシュビッツの代名詞だったほどだ。
しかし一方、たとえはカチンの森事件の扱われ方はどうだろう?
東京大空襲や原爆投下による大虐殺は?拉致被害者は?
今も戦火や圧政、独裁に苦しむ人々へ、世界の目は等しく向けられているだろうか?
中国はチベットに何をしつづけている?
アウシュビッツが悲惨でなかったとは決して言わない。しかし特定の「負の世界遺産」にギュッと人々の目を集めようする働きがあることも事実であろう。私はそこに意図的に偏った視点を植え付ける動きを感じてしまう。今の日本のマスメディアが行っている情報操作と同じではないか。
声を大にして言おう、クラクフは本当に美しい街だ。私にとってクラクフは、麗しい古都として記憶されつづける。食事、特にスープが美味しくて、人々は素朴で優しい。ポーランド=「平らな土地」を意味するというが、私はこの旅で平らかな視点を広げてもらえた様に感じている。
★ヴァヴェル大聖堂
カチンスキ大統領夫妻は、現在クラクフのヴァヴェル大聖堂地下に埋葬されており、夫妻のお墓には、市民から色とりどりの大量の花々が手向けられていた。
(カチンスキ大統領96スピンに、とりあえず思いつくまま記録する。)
クラクフはとても美しい街だ。中央広場の聖マリア教会の高い塔(81m)からは、夜も休まず24時間毎時、時を告げるトランペットの演奏が聞こえてくる。その演奏は、あるところまで来ると「ピタッ」と中断される。この塔で、13世紀にモンゴルの襲来を告げるためにラッパを吹いていたラッパ兵が敵に喉を射られ、演奏の途中で命を落としたことを、市民たちが今も追悼し続けている行為なのだという。ポーランド市民の、祖国と同胞を思う気持ちは深い。

ポーランドに関する多重シンクロは、これから少しずつ書き重ねていくだろう。しかし今日は、カチンスキ大統領のことを書こうと思う。今日でなければならないから。
2010年4月10日、レフ・カチンスキ大統領夫妻とポーランド政府要人・軍人を乗せた飛行機が墜落。96名の乗員全員が死亡する事件があった。飛行機は、「カチンの森事件(*)」70周年の追悼式現場(現ロシア西方)へと向かっていた。(*戦時中のソビエトによるポーランド人捕虜数万人の虐殺事件。正確なことは明らかにされてない)
カチンの森とカチンスキ大統領という名前の一致。同胞の追悼に向かった飛行機が、現場近くの森で墜落し乗員(ポーランド要人)全員が亡くなるという二重の悲劇。2010年の事件当時、ニュースで知って大きな衝撃を受けたものの、ポーランドとは特に接点もなく、この事件のことはその後すっかり忘れていた。しかし旅の下調べをしているうちに思い出し、この事件が、私たちがこれから向かう国で起こったことなのだと、急にリアリティーを感じる様になった。そして、以下の情報に触れた時には、正直戦慄を覚えた。
「大統領一行を乗せた飛行機は、ツポレフ154M型/機体記号101/96名全員が他界。」
今回の旅のスタートはKIN154から。KIN101は私の反対のパートナー、日航機123便事件当日のKIN、そしてD16歳の誕生日だ。また96は、シャンバラの数であり、Dの誕生日は8月12日(8×12=96)、私の誕生日(1月14日)のPCUは96。今回初利用のポーランド航空の日本就航は昨年の私の誕生日。ゆえにポーランド航空就航日PCUも96である。(成田ーワルシャワ直行便は、往路LO-79/帰路LO-80便と自分のメモのために書いておこう。ついでに昨年の誕生日に買った羽布団の羽がポーランド製だったことも。)
ところでこれを書いている今日は、皇太子殿下(1960年2月23日生)の誕生KIN166。81スピンの完了。お誕生日PCUは159(これが後で効いてくる)。
カチンスキ大統領(1949年6月18日生)も、誕生KIN166。存命であれば96スピンの完了。同じくPCUは240。
大統領夫人マリア・カチンスカさん(1942年8月21日生)は誕生KIN15(美智子皇后陛下と同じ)。PCUは260。
これら一連が何を意味するのかはわからないが、私たちが何故このタイミングでポーランドに行ったのかの材料が揃っている。少なくとも私たちにとって、カチンの森事件とカチンスキ大統領は記憶に刻まれる。知ってほしいと時空から呼びかけられたのだ。しかし世界中の誰もが普通に注目している事件というわけでも無いだろう。戦時中のカチンの森事件はソ連(現ロシア)にとっては自分たちの罪と認めたく無いし、敗戦国ドイツの仕業となすりつけたい。ドイツはドイツで、もちろん逆のことを言っている。戦後、周辺他国の影響下にあったポーランドでは、長年、強力な抗議もできなかっただろう。更に2010年の飛行機事故の原因は、ロシアによる暗殺説から、カチンスキ大統領のパイロットに対する無謀な着陸命令が事故原因という説まであり、真相はわからないままだ。
世界には、意図的に封印された、あるいは無きものとされた、我々の知らない様々な事件があるのではないか。しかし、あるものはことのほか大きく取り上げられ、あることは世界中が見て見ぬふりをする。無きものとされたり、逆に捏造されたりもする。国と国のパワーゲームの材料として、人々の苦しみや悲しみが政治利用されてる事柄があまりにも多いように思う。
私たちは今回「負の世界遺産」として世界中から見学者の集まるアウシュビッツに行くつもりは、最初から無かった。犠牲となった方々にはもちろん心からの哀悼を感じているし、子供の頃から私にとってクラクフといえば、アウシュビッツの代名詞だったほどだ。
しかし一方、たとえはカチンの森事件の扱われ方はどうだろう?
東京大空襲や原爆投下による大虐殺は?拉致被害者は?
今も戦火や圧政、独裁に苦しむ人々へ、世界の目は等しく向けられているだろうか?
中国はチベットに何をしつづけている?
アウシュビッツが悲惨でなかったとは決して言わない。しかし特定の「負の世界遺産」にギュッと人々の目を集めようする働きがあることも事実であろう。私はそこに意図的に偏った視点を植え付ける動きを感じてしまう。今の日本のマスメディアが行っている情報操作と同じではないか。
声を大にして言おう、クラクフは本当に美しい街だ。私にとってクラクフは、麗しい古都として記憶されつづける。食事、特にスープが美味しくて、人々は素朴で優しい。ポーランド=「平らな土地」を意味するというが、私はこの旅で平らかな視点を広げてもらえた様に感じている。

カチンスキ大統領夫妻は、現在クラクフのヴァヴェル大聖堂地下に埋葬されており、夫妻のお墓には、市民から色とりどりの大量の花々が手向けられていた。
(カチンスキ大統領96スピンに、とりあえず思いつくまま記録する。)